堂々と示してほしい「日本の国家観を」 (2009年09月号)

 

 7月21日、衆院解散。巷では総選挙の話題でもちきりなので、都議選は旧聞に属するが、その結果から始めなければ一歩も前に進めない。外国人なので投票権はないが、都民であり、納税者として、7月12日夜は、真夜中までテレビに齧り付いていた。自民党に逆風が吹いていることは、百も承知である。しかし、昨日今日立候補した20代の若者が、いとも簡単に当選してしまう状況には、言葉もない。民主党候補者であれば、本人の中身など無関係という有権者の反応に、絶句し、泣きたくなった。

 翌日、最終便で富山に飛んだ。出発は遅れる、機内への案内放送はまともに聞こえない。パイロットの技術が悪いのか、ランディングが乱暴極まりない。5月に朝の便で富山入りした時は、冠雪の立山連峰を眼下に見下ろし、富山湾をぐるっと旋回しスムースに着陸した。なんという違い。

 せめての救いは、翌朝「剱岳」を見られたことだ。といっても今話題の映画ではない。北アルプス立山連峰に鎮座する剱岳が、ホテルの最上階のレストランから綺麗に見えたのだ。梅雨時にはなかなかはっきり見えないが今日はラッキーですとホテルマンが言う。朝食をとりながら連峰の雄大な姿を見ていたら、ここ数日の怒りや鬱憤が少々おさまってきた。

 2006年夏、安倍晋三内閣官房長官(当時)が「美しい国へ」を上梓、ベストセラーになった。

 「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。この可能性を引きだすことができるのは、わたしたちの勇気と英知と努力だと思う。日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために汗を流すべきではないだろうか。」

 この巻末の言葉こそ、来る衆議院選で有権者へのアピールとして説かなければならない。

 地方へ出かけるたびに、日本は美しい国だと再認識する。新幹線で西に下るときは必ずD席を所望する。天気の良い日は富士山が見えるから。飛行機が羽田を飛び立つと、間もなく富士が見えることがある。なぜか右に見えたり、左に見えたりする。窓側にいても路線に依っては、反対側だったりする。曇りの日で諦めていたら、突然、雲の上に真白な頂上がぽっかり浮かんでいるのが目に入る。その日は一日気分がよい。世界中、山は沢山あるが、均整のとれた見事な美しさを誇る山は富士以外にはない。

 先年、伊勢神宮に参拝し、神職の方に案内いただいた。見事な森の緑に感嘆の声を上げたら、式年遷宮に備えて長野県でも植林していると話された。80年前に始めたが、遷宮を自前の木で賄うには後120年かかるとの事。普通なら気が遠くなるような時間だが、いとも当たり前のように言う。日本という国が未来永劫続くと信じてなければ、そんな言葉は出ない。いや、この国が未来永劫続くのが自明の理でなければ、事も無げにそんな言葉は口にでない。

 五十鈴川(いすずがわ)のほとりを散策しながら、「アフリカのVIPが、ここに坐り込んで動きませんでした」と。「わが国にはこんな清らかな流れはありません」とその高官はつぶやいたそうだ。五十鈴川は別格としても、日本の河川は大体にして清流である。

 空から瀬戸内海を見るのも楽しみの一つ。大小の島が点々と配置され、島々には小高い山があり、緑で覆われている。豊かな緑、清らかな水、長い海岸線。日本は美しい国なのだ。

 未来永劫、このまま美しい国を護り育てるには、日本人一人ひとりが何がしかの役割を引き受けなければならない。国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国に何を貢献できるか。その基本的な姿勢を呼び起こせば、衆院選では都議選と異なった結果が出るのではなかろうか。

 27日午後、民主党の鳩山代表は、衆院選のマニフェストを発表した。新聞紙上で知る限り、日常生活の次元での約束に終始し、国政を荷う政党としての気迫も覚悟も見受けられない。国の安全と繁栄なくして、国民の豊かな生活が保障される訳はない。

 「『私の願いは一つ。ここにお見えの衆院立候補予定者に全員そろって帰ってきていただくことです』21日昼、自民党本部9階で開かれた両院議員懇談会。閉会直前に2度目のあいさつに立った麻生太郎首相は感涙に顔をゆがめた」(産経新聞22日)

 自民党は外交・安全保障をどう考えるのか。日本人としての国家観を堂々と示して欲しい。

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