『無告の民』と日本 (2002年08月号) |
「無告」という古い漢語がある。広辞苑によると「告げ訴えて救いを求めるところのないこと」という意味だという。私がこの言葉を初めて知ったのは昭和40年代の初めころだったと思う。
そのころ私は、自分の人生の受難期ともいえる時代の真只中にいた。幼児を2人抱えて早稲田の大学院に在学中だったが、やはり大学院生だった夫と同 様、いずれも政治的な言動の故に台湾の国民党政府によってパスポートを剥奪された身の上であった。旅券なしの日本滞在が認められたのは在学中という理由か らで、学校を卒業したらどうなるのか、文字どおり明日をも知れぬ身であった。
私たちは事あるごとに台湾における政治的真実を訴えつづけていたのであるが、真剣に耳を貸そうとする日本人は少なかった。日本の左翼は台湾独立運 動を「日帝の手先」ときめつけて済まそうとしたが、その知的怠慢にみんな呆れたものだ。私たちはときどき子どもの手を引いてデモに出かけたが、数寄屋橋公 園のたもとで辻説法している赤尾敏に、「貴様ら北京のスパイだ!」と見当違いの罵声を浴びせられるのが常であった。
台湾人が台湾の惨状について訴えているだけなのに、日本の右翼も左翼もなぜあのように、まるで自分がけなされているかのように反発して、私たちに 罵詈雑言を浴びせなければならないのだろうか。一部の日本人の意識の中では中国と自国日本とが未分化の状態にあって、中国が批判されるのはあたかも内なる 神殿が侵されるように堪えがたいようだ。台湾独立運動は世界のあちこちで行われていたが、こんな奇怪な反応をするのは(中国人は別として)日本人だけで あった。
その端的な現われは、そのころ相継いだ台湾独立運動者の強制送還事件であった。呂伝信は入管収容所内で首を吊り(昭和42年3月)、林啓旭と張栄 魁はハンストの後に東京地裁の介入で九死に一生を得た(同8月)。羽田で舌を噛んだ柳文卿は口から血泡を吹きながら中華航空機に押し込まれて送還された (43年3月)。後に明らかになったことだが、彼らの強制送還は日本の入管当局と蒋介石政権との密約にもとづくものであった。
30歳台半ばにして私たち夫婦は遺書を用意し、子どもを親しい日本人に養子縁組させる計画を進めた。「明日はわが身」だと覚悟していたのだ。同志の一人はどこからか青酸カリを入手して、ズボンの裏に縫いこんでいたが、私たちにはそんな物はなかなか手に入らなかった。
台湾人を「無告の民」と表現した一文を読んだのはそんな状況のころであった。私はただ泣き、密かに感謝した。その豊かな想像力と暖かい惻隠の情の持主は当時東大教授だった衛藤瀋吉先生だった。
あれから30数年、私たちはもはや「無告の民」ではない。台湾には私たちが有史以来初めて自分で選んだ政府があり、言論の自由がある。自由な意志を世界に訴えることができるようになったのだ。
蒋政権の下で安住できず、やっと逃げ延びてきた日本で、私たちは軒の下を借りて雨露をしのいでいた。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」というが、当 時の入管当局者はそんな弱った鳥ばかりつかまえて鳥屋に卸し売りしていたのだ。こんな出来事、日台近代史の上で何か日本の名誉になるのだろうか。
5月20日、東チモールの独立に際して、朝日新聞は「小さな独立を祝いたい」との社説を出し、冒頭に次のように書いた・「自分たちの生き方は自分たちで決める。当たり前のことを実現するのに、これほど長く人々が苦しんだ島はない」
日本のすぐ隣の島台湾に、同じ当たり前のことを実現するのにより多数の人がより長く苦しんできたのだが、朝日は気付かない。または気付かない振りをしている。しかし、これに気付く日本人が次第に多くなっているのは心強い限りである。
瀋陽事件に対する日本一般の世論にも心強いものを感じた。あの北朝鮮難民たちこそ正に現代の「無告の民」である。彼らを中国官憲の手に渡したこと にほとんどの日本人は怒った。その怒りが気の毒な難民たちを救ったのだ。台湾人強制送還の時代と比べると世論の格段の進歩である。
台湾独立運動者が迫害された時代の当時の一人として私は証言したい。あの「チャイナスクール症候群」も、「難民は追い返せ」発言も、その淵源たるや実に古く、症状は根深いのだ。