曽野綾子さんと呵呵大笑した日 (2003年12月号) |
8月末に久しぶりに「朝まで生テレビ」に出た。「激論!愛国心と国益」という、日本ではまだ禁忌に近いテーマだ。これに敢えて挑戦した「テレ朝」の意欲に好感して、私は喜んで討論に臨んだ。
結局この討論は羊頭を懸げて狗肉を売るような結果となって、大勢の視聴者と同様、私自身も肩透かしを食ったような感じになった。3時間にも及ぶ討論はもっぱらイラク戦争の是非をめぐって終始し、肝腎の「愛国心」の議論はといえば、例に依って例の如く、国民ではなく地球市民の立場に立つとか、偏狭な愛国心は危険であるとか、お決まりの便利な口頭禅が早速飛び出したが、話はまたすぐに"人畜無害"の反米論へと流れていってしまった。結局、当日の論者の多くに、愛国心について真面目に考え、これを本気で論じようとする気持が希薄だったということであろう。やっぱりタブーなのである。
愛国心というものは、これを肯定的に捉えようと否定的に捉えようと、古来から人類の歴史を大きく動かしてきた主要な素因の一つであることには違いない。そうであるなら、この問題についてひたすら目を閉じ、耳を塞ぎ、これを避けて通りたいとする姿勢は、「幼稚症的」の謗りを免れ得まい。何やら、砂中に頭を埋めると安心した気になる駝鳥を連想させる。憲法や防衛の議論についても、日本は長らく同様の状態であったが、今は民主党も「論憲」を主張する時代なのである。
愛国心の議論をタブーとする人々の意識の裏側に私は彼らにおける自信欠如と自己欺瞞を感じる。本当に自信があれば堂々と議論を戦わして自分の信念を披瀝すればよいのだが、これまで彼らがやってきたことといえば、言論上のタブーをできるだけ数多く作り上げ、敢えて発言する勇気ある人を"失言"に誘いこんでその首を取るという陰湿な手口だ。
「国民」であることを否定して「地球市民」を自任する彼らは、その欺瞞性に気付かぬほど鈍感だとは思えないのだが、きっと思想的潔癖さに問題があるのであろう。だいぶ前、あるテレビ番組で私は辻元清美氏に尋ねたことがある。「『国家』をそんなに否定される貴女は、なんで国会議員になるんですか」。その答えは今に至るまでまだ聞いていない。
曽野綾子さんはもっと辛辣な疑問を呈している。アンゴラでのハンセン病患者支援活動のため、知人の医師であり牧師であるスイス人が、スイス国籍を捨ててアンゴラ人になった事例に触れて次のように述べる。「日本をあしざまに非難した人たちは、一人として日本国籍を捨てて彼らの讃美する国に国籍を移していない」(「透明な歳月の光」79)
日本国籍に付随するすべての権利を享受してきながら、都合が悪くなると「地球市民でございます」はないであろう。日本国憲法には国籍離脱の自由が認められているが、「国民」ではないと公言する人たちが、だれ一人日本人をやめようとしないことに曽野さんと同様私も訝っている。因みに私は蒋政権を批判して中華民国国籍を捨て、30数年間日本で亡命生活を送り、無国籍のもたらすあらゆる不利益を堪え忍んできた身である。こんな問題で綺麗事をいっても、私にはこの手のウソはすぐ分かるのだ。
「日本人の偏狭な愛国心」なる決まり文句は、誰がいつ作ったのか知らないが、結構世の中に広く伝わっている。「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝う」の類であるが、この場合伝える人が明らかにウソと知っていながら、タメにするために触れまわっていることが多い分、「地球市民」の自己欺瞞よりずっと悪質だといえよう。実際のところ、今の日本人における国家観念の稀薄さはつとに有名な現象となっており、ほとんどすべての国際調査において動かせぬ具体的数字となって表れている。たとえば2001年の日本青少年研究所の意識調査では、日・韓・米・仏四ヵ国の中高生の中で、「国のために何か貢献したい」と思う割合は日本が最低で、逆に「全く貢献したいとは思わない」割合は最高であった。
そんな事よりも、早い話、何かある度に民衆が外国の国旗や元首の人形を燃やす光景は、隣国などでは日常茶飯事だが、私は日本では見たことがないのだ。「偏狭な愛国心」を言いたがる人、胸に手をあててよく考えてほしいものだ。
「朝ナマ」の直後、私はある会合でたまたま曽野さんに出会った。「金さん、私見てたの。貴女イライラしてたでしょう」。そういう曽野さんと顔を見合わせて、2人して呵呵大笑したのである。