精神の構造改革こそ急務 (2001年10月号) |
「今年の夏で残念だったことは、小泉首相が初志を曲げて8月13日に靖国神社を参拝されたことと、『新しい歴史教科書』の採択率が限りなくゼロに近かったことです」
8月20日に届いた私宛の手紙の冒頭に、昨今の騒動の結末に対する無念が綴られていた。
差出人は、20年以上にわたって終戦の日に靖国神社への参拝を欠かすことのなかった会津若松市在住の眼科医であった。彼によれば、例年に比べて今 年の8月15日の靖国神社は大混雑の賑わいをみせ、地下鉄九段下駅付近も参拝者でごった返し、拝殿に向かう参道は満員電車のような状態だったという。
すでに、小泉首相が靖国神社参拝を13日に繰り上げたことに対する是非は言い尽くされているので、ここで敢えて付け加えるならば、小泉首相が裏切ったのは、他ならぬ「最も彼を支持してきた日本を愛する人々」だったということであろう。
8月19日、竹村健一氏がフジテレビの「報道2001」で、「私の最も尊敬する人が、真に独立する機会を逸したと言ってますよ...」という主旨の批評をしていたが、まったく同感だ。
支持率が80%を越える首相が8月15日に靖国神社に参拝できなければ、この先日本の首相はまずもってこの日に参拝することはできないだろう。
私の危惧はそこにある。
当の小泉首相は、箱根の保養地で、「傷ついた」と口にされたそうだが、実際に傷ついたのは、首相が8月15日に靖国神社を参拝することを期待していた多くの一般国民だったということを、もう一度ここで繰り返しておきたい。
この一連の小泉首相の公約撤回騒動は、もとより現代の日本人が〃緊張感〃に耐えられなくなったことに収斂されるのではなかろうか。頑固なまでに自 らの意思を貫く姿勢を見せていたあの小泉首相ですら、周囲の反対の声に屈するのだから、何をかいわんやである。まして一般社会に暮らす平凡な日本人が、ス トレスに弱く、他人との対立を避け、そして緊張感に耐えることができずに逃げ出してしまうことなど責めようがない。
ただ、そんな風潮に包まれた現代日本の社会は、なんとも"異様"な風景に変貌しつつあることを指摘しておかねばなるまい。
今から42年前、私が留学生として来日した頃の日本には学ぶべきことが多かった。しかし今日、軽蔑の情すらもよおす"しまり"のない人々のなんと多いことか。
私は、通勤のために小田急線と地下鉄丸の内線を利用しているが、日を追って増えてゆく乗客のだらしない姿に、最近は少々のことには驚かなくなっている。それでも先日、新宿駅で発車寸前の電車から目にした光景には我が目を疑った。
次発の電車を待っていた30代のOLらしき女性が、開いた電車のドアの前で、しかも乗客の面前で堂々とおにぎりにかぶりついているのである。その光景を目にした私は開いた口が塞がらなかった。
福田和也氏が、「電車の中でモノを食べる身なりのよい中年女性の姿は無気味だ」と論評していたが、衆人監視の公共の場で平然とおにぎりをほおばる とは、いったいどういう心境なのだろう。私にはまったく理解できなかった。大和撫子という言葉はいまや死語なのだろうか...。電車の中での化粧もしかり、い まや若者だけではなく、中年女性までもが人目を憚らず車内で化粧にいそしんでいる。
日本社会にはもはや健全な"緊張感"すらなくなったとしか言いようがない。もっといえば、精神的な堕落が危険なまでに進行しているのである。
緊張感をただ恐れ、緊張感から逃れることだけを考えるようになった日本の末路がこのていたらくなのである。
金融財政をはじめ、あらゆる分野における構造改革も大切だ。しかし、いま日本社会にとっての急務は「精神の構造改革」ではなかろうか。要するに教 育問題である。戦後半世紀の教育が間違っていたことは明らかであり、これをどのように改革してゆくのかが最も重要な課題となろう。その意味から私は遠山文 部科学大臣に期待するところ大である。
「近隣諸国や外国の圧力に屈するな!」などと大それたことをもう期待する気はない。が、小泉首相には、せめてこの教育の構造改革に緊張感をもって取り組んでいただきたいものである。