新鮮な体験、ろう者とのコミュニケーション (2003年08月号)

 

 3年ほど前、「日台親善・文化交流」を趣旨として「金美齢事務所」を設立したが、「文化交流」とは何と広い概念かと今更ながら驚いている。わがオフィスが台湾の絵画や陶磁器の半常設的展示場と化し、台湾茶や台湾料理の実演紹介の場となったのは当初予期したとおりで大いに結構である。しかし、留学や日本語学習の相談ならまだしも、日本留学中の娘の縁談を台湾の両親が心配しているとか、日台カップルが離婚で揉めているとかの個人的な話を持ちこまれることもある。これもまた「文化交流」の一環なのだと自分を納得させるしかない。

 先日、それこそ「日台文化交流」そのものであるが、私にとってはまったく未知の貴重な体験をした。初春のある日、「Dプロ」と名乗る日本のろう者の団体から私の事務所に突然連絡があり、台湾について勉強したいからと私への講演依頼があった。

 「私どもでは大してお礼は出来ないのですが・・・」
 「いえ、そのご心配は一切無用です」

 私はそう言って、二つ返事で引き受けた。日本ではここ数年来台湾に対する関心がようやく高まってきて、政治・経済・文化関連のさまざまな団体から私のところにも講演依頼がよく来るようになった。しかし身障者の団体が「台湾について勉強したい」とは誠に意外。「よく言って下さった」と私の方からお礼を言いたい気持ちであった。

 これは後日聞いた話であるが、ろう者のための手話が台湾に導入され普及したのは日本統治時代で、そのため現在でも日本と台湾のろう者の間では七割程度の意思疎通が可能だとのことである。これは韓国についても同じ事情だそうで、そんなことから来年には日・韓・台3ヶ国のろう者の交流が計画されているのだという。健常者なら言葉に困るところをろう者なら手話でできる。何とも素晴らしい話ではあるまいか!「Dプロ」で台湾について勉強するのは、この交流計画のための準備だという。

 戦後の日本において「台湾」にまともに光が当てられるようになったのは、李登輝氏の登場(1988年)以降といってよい。それまで日本人にとって台湾とは「蒋介石総統の中華民国」でなければ「中華人民共和国の一部」であり、政界でも言論界でも台湾を人身御供にして「対中贖罪」を果たそうとする虫が好い考えが支配的だった。マスコミ界ではそのような意図に好都合な「友好人士」の独断ばかりまかり通って、肝心の当事者である台湾人の声を聞くべきとする発想さえ完全に欠落していた。私にとって何とも悔しく腹立たしい時代であった。今度のろう者団体の講演依頼には正に今昔の感がある。

 私の講演は6月14日の午後、豊島区民センターの文化ホールで行われた。日ごろ講演の依頼は結構多く、それで事務所を支えている私ではあるが、今度のは新鮮な体験の連続であった。まず戸惑ったのはしゃべる私の口元にはマイクなど置かれてなく、私の声が皆に届くのだろうかと、要らぬ不安に駆られることだ。シーンと水を打った様に静まりかえったホールの中で、私の肉声だけが頼りなげに響くのは、私には未知の奇妙な感覚だ。

 もっと奇妙なのは聴衆の視線だ。全員が喰入る様に真剣な眼差しなのだが、それが向けられている先は演者である私ではなく手話者なのである。何とも不思議なチグハグ感だ。

 私は若い頃プロの通訳もやり、しゃべることだけが取柄のような人間だ。普通は、講演の内容に応じて声の強弱や抑揚を本能的に調節している自分に気付く。しかしろう者の人たちの前では勝手が違う。そんな微妙な調節の努力は、まるで一人相撲を取っているように空しく、ある種の無力感を覚えるほどなのである。げにコミュニケーションとは難しいものだと、改めて思い知った気がした。

 コミュニケーションという英語はラテン語のcommunis(=common)を語源とする。これは単に音声や映像を物理的に人に伝えるだけではなく、その結果送る方と受ける方との間でcommonな(共通の)認識や感覚が生じることを意味する。

 質疑応答になったとき、1人の若い女性がある台湾人の消息を訊ねた。思わず目を見張るほどの美人だ。講演中私は彼女が目にいっぱい涙を浮かべているのに気付いた。いや、会場のあちこちに同じ涙の人がいた。ああ、この方々との間で確実にコミュニケーションが成立したのだ。互いに共通する気持が生まれたのだ。私も嬉しさで胸がいっぱいになった。

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