若者に人生を誤らせる罪作りな筆致 (2005年01月号)

 
 本欄で何について何を論じようと、これまで他人に干渉されたことはないし、私自身右顧左眄して、言うべきことを手控えるような卑怯未練な真似はしていな いつもりである。ただ、私には外国人である立場故の礼節上の限界という意識が常にあるから、少しでも台湾に関連してくる問題についてはともかく、日本人自 身の心の問題については、よいの悪いのと内政干渉がましいことを言うのは、たとえ強い意見があっても、なるべく避けるようにしてきた。

 実はこれは「言うは易く行うは難し」という原則で、例えば昭和40年代学園紛争華やかなりし頃、早稲田での私の英語の授業を"粉砕"しにやってきたヘル メット・覆面・ゲバ棒姿の学生たちと、私は本気で怒ってやり合ったものである。最近、イラクのバクダッドでテロ組織に拉致殺害された香田証生さんの事件を めぐるある論調について、本質的に日本人自身が決める問題だとは思いながらも、その無責任な欺瞞性に、私は怒りを禁じ得ないでいる。

 私が指摘するのは、朝日新聞の看板コラム「ポリティカにっぽん」(平成16年11月2日付)であ
る。「『政治の論理』より『命の論理』」と題するこの一文の中で、同社のコラムニストの早野透氏は香田さんの家族について「いかにも心やさしい人たちのよ うである」と想像し、「そんな家族の中で育った青年が人間の善意を信じて自らの危険を顧みなかったことはありうることだ」と論じる。

 物は言いようである。ここでは、家族の人柄から連想させる手法で、これが「一人の善意の青年の自らの危険を顧みない行動」だと崇高な位置づけをして、ひ たすら事態を美化しようとしている。「政治の論理」によって一人の「善意の青年」を見殺しにしたとのレトリックのための伏線なのだ。

 4月に同じくイラクで3人の日本人が人質になったが、彼らの家族の傍若無人、自己中心の言動は多くの国民の眉をひそめさせ、「自己責任」という何やらよ く分からない言葉を世に流行らせた。何でも他人のせいにする世の中の風潮への反撥であろう。これに比べて香田青年の両親は、はるかに健全な日本人的常識の 持主のように私も思う。しかし、だからといって、その息子が「善意の青年」だとするのは、美談仕立を目論む早野氏の勝手な憶測に過ぎない。私はむしろ、病 弱で働けない父親を抱えて、母親がアルバイトしながら一家を支えていたと伝えられる彼の家庭状況では、高校を出してもらったらいち早く定職につき、お母さ んの負担を少しでも軽くしてあげるのが「善意」の息子が普通やることだと思う。24歳にもなって、なに一つ仕事に専念できず、ニュージーランドからイスラ エル、そしてさらにイラクへとあてもなく流浪を続けるだけの無知、無謀の若者を、「自らの危険を顧みなかった」と英雄視してみせる早野氏は、一体全体どの ような意図でこんな空しい言葉を羅列するのだろうか。はっきり言って、これは若者に人生を誤らせる罪作りな筆致である。

 早野流の美文はさらに、「新潟県の地震を見よ。ここには、崩れた岩に閉じこめられた坊やの小さな命をレスキュー隊が救い出した感動がある」と高まってい く。そして「イラクの戦場の命も大地震に脅かされる命も、みんなかけがえのない命である」と続く。ひどい殺され方をした香田さんの運命を論じるのに、全国 を感動させた優太ちゃんの救出劇を闇雲に引っぱってきてこれと対置させ、人の命に軽重はないはずなのにと慨嘆してみせる。その心はもちろん、非難の矛先を 政府に向けることにある。

 不可避の災難のあと92時間もたって、レスキュー隊の献身的な努力によって奇蹟的に救われた幼い命には、人々の胸を震わせ瞼を潤す大きな感動があった。 確かに人の命には軽重はない。しかし、自己の軽率な行動の結果窮地に陥った香田青年が仮に救出されたとしても、私を含めて日本中が「よかった」と安堵の胸 をなでおろすであろうが、胸を震わせる感動を呼び起こすことはあり得まい。

 「『政治の論理』より『命の論理』」という表現も、「政治」をひたすら「悪」のイメージで捉えたがる俗論に媚びたもので、「政治」の究極的な目的が国民の生命と生活を守ることにある事実(現今の台湾を見よ!)を一顧だにしない。

 私が早野流の筆致に怒りを覚えるのは、あのような無責任で軽佻浮薄な物言いが、香田青年のような犠牲者を再生産することになると思うからである。
ページトップへ