大衆社会に届ける言葉がいかに大切か (2009年01月号)

 

 麻生太郎総理大臣を始め、政治家の「言葉」が話題になっている。メディアは「先に結論ありき」で、それにはめ込む言葉を発言の流れに構わず、拾い出して使う。テレビの視聴者や新聞の読者は否が応でも、メディアの意図する方向に流される。

 その現実が見えているのか、見えていないのか、不用意な発言をして、自ら罠にはまる政治家が出てくるのはなぜなのか。おめおめ敵に武器を渡すのは余りにも軽率である。かつて消費者を「やかましい」と言って、農水相を降りた大臣がいた。これは「消費者は厳しい」と言えば、なんの問題も無かったと思うが、立場立場に適切な表現があることを認識しないのは、言語力が貧困だと言わざるを得ない。

 オバマ次期アメリカ大統領が、その見事な弁舌に依って選挙戦を勝ち抜いていくプロセスを、遠く日本に居ても、手に取るように思い知らされた。彗星の如く現れ、あっという間に、世界一の超大国アメリカのトップに登りつめた黒人。アメリカ社会は「言葉」がこれほどまでに「力」を持っているのか、感嘆しながらも、一抹の不安も生じた。

 根まわしを大切にする日本の社会にも、それなりの意義はある。しかし、時に言葉が無力なのを実感し、挫けることがある。逆に、「姫の虎退治」などと軽佻浮薄なキャッチフレーズが威力を発揮する現実に、呆れ果てることもしばしばである。

 アメリカ映画「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」(Scent of A Woman 1992)をテレビで観たのは、かなり前なのだが、今でも忘れられない。主役の盲目の退役軍人を演じたアル・パチーノはアカデミー主演男優賞を受賞する栄誉にも輝いた。

 ベトナム戦の英雄、フランク・スレードは、自らの誤ちで手榴弾を暴発させ、盲目になり、ボストンの一画で引退生活を送る頑迷な嫌われ者だった。彼が募集したアルバイトに応募してきたのが、名門の進学校生、チャーリー・シムズ。成績優秀で給費生の青年である。

 かなり屈折したひねくれ者の退役軍人。世間知らずの純真な若者。この二人がマンハッタンの五つ星ホテルのスイートで豪奢な数日を過ごす。実は主人公はこの世の名残りに、今までコツコツ貯めた金を、パッと使い果たし、自殺するつもりでいたのである。

 セント・オブ・ウーマンとはホテルのホールで出会った女性に、ダンスの相手を申込みタンゴを踊る場面からくる。介添役のチャーリーにホールの地形と広さを確認した彼は、本能のなせる技か、目の覚めるような美人と、見事なタンゴのステップを踏む。香りに敏感である盲人の特権として、彼は「よかった。これでいつでもあなたを探せます」と相手に囁く。いつも不機嫌でイライラしていた面影はなく、スマートで洗練された紳士の一面を見せ、過去にはこういう日々もあったのだろうと思わせる。

 チャーリーの必死の説得で、自殺は踏み止まるが、ボストンに戻った時、チャーリーに災難が振りかかってきた。今度は彼が助ける番だ。引きこもりの頑迷な彼が、一世一代の名演説を全校集会でぶつ。

 「私は今まで何度か人生の岐路に立ってきて、どちらの道が正しいか、いつも判断できた。しかし私はその道を選ばなかった。なぜなら、それは困難な道だったから。だが、チャーリーはあえてその道を選んだ。私たちは彼を見守ってやろう」

 万雷の拍手。チャーリーは間違いなく窮地を脱出し、全校のヒーローになった。そして、一人の女性教師が彼フランクに近づき、「本当に感動しました」と言い、エスコートの腕を差し出す。それはまぎれもなく、彼に新たな日々が開けることを暗示していた。

 アメリカ社会に於ける言葉の力を再認識した瞬間だった。所詮は映画、と言う者もいるだろう。しかし、日米各々の言葉の持つ重さの違いは大きい。日本では「沈黙は金」といった時代が長かった。「サイレント・マジョリティ」と言ったのは六十年安保騒動時の岸信介首相だ。「アー・ウー」と言われたり「ボキャ貧」と言われたりした歴代の首相。国民も政治家も「巧言令色、鮮矣仁」のDNAが刷り込まれていたのではなかろうか。

 しかし、時代は変わった。大衆社会に届ける言葉を政治家は持たなければならない。メディアの悪意にひっかからないように、いかに信念を語るか。

 オバマ氏は、当選後の演説に「ゴッド・プレス・ユー、。ゴッド・ブレス・アメリカ」としめくくった。国を愛することを伝えるのを忘れてはならない。

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