ロンドン再訪で思うこと (2003年10月号)

 

 イギリスには折畳み傘まで用意して行ったのに、ロンドンのトラファルガー広場では子供も大人もパンツ一枚になって、ネルソン提督像の足元の噴水池に飛び こんで猛暑を凌いでいた。東京にもどってみると、日本は長雨の冷夏だった。2週間あまりのイギリス滞在で心身ともに些か熱くなっていた私も、すぐまた繁忙 で散文的な東京の日常に引きもどされてしまった。

 今度の英国旅行は、7月26日にロンドンで開催された世界台湾同郷会(世台会)30周年記念総会に基調講演者として招待されたという名目もあった のだが、本当のところはこれにかこつけて、若き日に遊学したケンブリッジやロンドンの街を再訪したいという私の感傷旅行であった。

 30年前、世界に散った台湾人の連帯をはかるため、ウィーンで世台会を創立しようと呼びかけがあったとき、私は日本から馳せ参じた数人の一人で あった。当時は日本が台北から北京へ馬を乗り換えたばかりのころで、在日台湾人は身の振り方について1.日本に帰化、2.中華人民共和国の国籍取得、3.日本から退去、という三つの選択肢を日本政府によって迫られていた。結局、それまで北京を美化して止まなかった台湾人左翼を含めて絶大多数が1を択んだのである が、「北京へ雪崩現象か?」などと書いていた日本マスコミの希望的観測は見事に裏切られたのであった。

 私はといえば、3つの選択肢をすべて拒否した。自分のアイデンティティを人から強制される謂れはないとの信念からであった。私がウィーンに飛んで世台会の創立に参与したのは、正にそのような危急存亡の秋であった。

 あれから時代は大きく変わった。今年のロンドン大会では、インターネットの双方向映像通信により、オンタイムで台湾から送られてくる陳総統の「公民投票」のアピールに対して、世界各地から参集した数百の同郷は手を振って大歓呼でこれに応えた。

 大会閉幕後、バス・ツアーで各地を巡る一行と別れて、私は旧遊の地ケンブリッジを訪ねた。夏休みのせいか街を闊歩する若者の姿こそ少なかったが、 ケム河は相変らず緑蔭に沿って豊かな水量を運んでいたし、キングス・コレッジの礼拝堂も昔のままの壮麗さであった。次に、同行の夫に見せたいと、見学チ ケットを買って最大の規模を誇るトリニティ・コレッジへ案内した。何しろここはかのニュートンが学んだ学校で、古色蒼然とした礼拝堂の中には、著名な卒業 生としてニュートンの他に歴史家マコーリーや詩人テニソンなどの銅像が立ち並んでいる。

 突然私は足を止めた。礼拝堂の壁に一面多数の人名が彫られている。近寄ってみると、「英国のために命を捧げた卒業生たち(1939-1945)」とある。向かいの壁には第一次世界大戦の戦没者が刻まれていたが、そちらのリストの方はもっと長い。

 キャンパスが隣接するセント・ジョン・コレッジの礼拝堂の壁にも、私はまったく同じリストを発見した。ここは客員研究員時代ハイテーブルに招かれ たこともある思い出の学校だ。当時礼拝堂にも何度か足を踏み入れているはずだが、この壁面の墓碑銘のことは覚えていない。恐らく、当時はこれをきわめて自 然な、当たり前のこととして受け止めていたので、特別な記憶として残っていなかったのであろう。そして今度の発見が私にある種の感動を与えたのは、日本で ここ十数年来「靖国」をめぐって延延とつづく神学論争に毒されて、国家や社会のために命を犠牲にした国人(くにびと)に対する哀悼や感謝の念という最も根 源的かつ伝統的な感覚が知らず知らずのうちに麻痺していたことを思い知ったせいであろう。

 壁面の墓碑銘を見たとき、なぜか私はイギリス本土防衛戦のとき、スピットファイアを駕してドイツのメッサーシュミット機を邀撃した若いイギリスの パイロットたちを連想した。彼らの多くはケンブリッジやオックスフォードのキャンパスから志願していき、再びもどることはなかったが、ドイツ軍はイギリス の寸土も踏むことはできなかったのである。チャーチルは、「これほど少数の人たちによって、これほどの多数の人々が、これほど大きな恩恵を蒙ったためしは ない」、と述懐している。

 日本にも、祖国と同胞を救うべく、黙って命を捧げた若者は数え切れないほどいた。しかし「犬死」だとか嘲る声はあっても、東大や早慶のキャンパスに彼らの名前が記された例は知らない。

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