正名運動のデモに参加して (2003年11月号)

 

 おくればせながらやっと夏らしくなった9月の東京を後に、「正名運動」のデモに馳せ参じようと台湾に飛んだが、9月6日の台北の暑さはハンパではなかった。この日は朝から一片の雲もない快晴で、35度の最高気温が予想されていた。

 「正名」とは「名を正す」の意味で、すでに存在しない「中華民国」の虚名から脱却し、本来の「台湾」を名乗ろうというものである。もちろん、かつ ての蒋介石政権下の台湾では、こんな事は口にしただけで文字通り首が飛ぶこと請け合いであった。実際に私は昭和38年早稲田大学で「台湾稲門会」を組織し てその代表となったという咎で旅券を剥奪され、その後李登輝政権になるまで30数年間帰国を禁止されて親の死目にも合えなかったのである。同窓会の名称を 「中華民国稲門会」としなかったことで「国家に対する反逆の意図あり」と決めつけられた訳である。台湾人が「台湾」を名乗るのがなぜ"反逆"になるのか、 日本人には一見不可解に映るかもしれないが、私に対するこの指弾は当たっていなくもないのである。当の本人がそう言っているのだから間違いない。

 「中華民国」に対する台湾人の違和感は、第2次世界大戦後間もなく、連合国軍の委託管理令に基づいて台湾に進駐しただけの国民党軍が、いかなる国 際法的根拠も、また台湾人の同意をも欠いたまま事実上この島を占拠・支配したときから始まった。彼らはテロリズムと38年間敷きっぱなし(世界記録)の戒 厳令により台湾人を黙らせることに成功した。しかし外来支配者によって被せられた「中華民国」という"御仕着せ"に、人々はいつまでも馴染むことができな かった。

 「中華民国」に対するこのような"異心"が、新しいアイデンティを「台湾」に求めるようになったのは、李登輝政権による自由民主化以降、海外の政 治亡命者が大挙帰国するようになってからである。国民党政権を倒して陳水扁氏が総統に就任するに及んでこの気運は一層高まり、去年の夏、李登輝前総統を中 心に、今年の「511台湾正名運動」が計画されたというわけである。511、すなわち5月11日は「母の日」である。この日に正名大行進を行うことによっ て、私たちの本当の母=台湾=の息子や娘である自分を再確認しようという趣旨なのだ。残念ながら5月11日のデモはSARS騒動で実施不能になり、9月6 日に延期された次第である。

 私たち日本からの一行が指定された集合地は、台湾人が俗に「ハゲ寺」とよんでいる中正紀念堂である。「ハゲ」こと蒋介石(中正)は死んでからも市 内目抜きのかくも広大な場所を独り占めにしているのだ。すでに汗びっしょりの私は、「ハゲ寺」に着くやたちまちカメラの放列に囲まれた。日本から息子と孫 をつれて駆けつけたというのは絵になるようなのだ。私としては、忙しさの中でだいぶ手抜きをして育てた息子に、両親が何を求めて戦い人生を賭けてきたか を、一度は自分の目で見て知ってもらいたかったのだ。

 南部各地からバス仕立てで参集する人々が次々に到着して、行進出発時間の12時までに「ハゲ寺」周辺は立錐の余地もないほどになっていた。この物 凄い人出では人数など見当もつかない。「5万人はいるよ」という息子に私は「まさか」と否定した。指定集合地は他に6ヶ所もあるのだから・・・。

 台湾は初めての息子と孫の世話を夫に頼んで、私はデモ隊列の先頭に立った。「ハゲ寺」から出発する部隊は第一大隊と定義され、私はその総指揮官に 任命されていたのだ。第1から第7までの大隊が市内各地から同時に出発して、最終目的地である総統府前の広場に総結集する予定であった。

 沿路さまざまなボランティア団体や企業が冷えたミネラル・ウォーターなどを頒布していたが、日射病で救急車で運ばれた人が10数人(うち100歳 以上の老人が2人)出たという。しかし大多数は最後まで「台湾こそわが祖国」、「台湾はわが母の名」、「台湾の名で国連に加盟しよう」のスローガンを元気 に叫んで、総統府広場に続々と詰めかけたのだった。

 10万人予定のデモであったが(私は7万人で上出来だと思っていた)参加者は15万と発表された。80歳の李登輝氏が壇上で「来年は50万!」と獅子吼したとき、満場は「オー」とどよめいた。

 陳水扁総統は静かに一言感想を述べた ― 「総統じゃなければ私も孫をつれて参加するところだ」

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