奇を衒った教育論を排し、常識の復権を (2003年09月号)

 

 長崎の幼児誘拐殺人事件のショックもまだ覚めやらぬというのに、今日のニュースは東京の小学6年の女児4人が誘拐・監禁された話を伝えている。少女売春 を業とする男の甘言に易々と乗ってついていったのだという。そういえば、沖縄で中学生ら4人の少年少女が友人である中2の男子生徒を殺害し、死体を墓地に 隠匿したという、身の毛のよだつような事件もつい先月のことだった。

 97年の酒鬼薔薇事件がキッカケとなって、少年犯罪に世間の厳しい目が注がれるようになった。爾来、少年法改正を含むさまざまな方策が講じられて きたが、それらしき効果も見られないまま、ここにきて、状況の悪化は一段と低い年齢層にまで及んできた観がある。今度の長崎の事件など、12歳の子どもの 所業とあっては少年法にかすりさえしない。そもそもあれは「犯罪」にはならないのだという。「犯罪」でなければ「事故」なのだろうか。駿ちゃんのご両親と してはたまったものではあるまい。

 この犯罪の低年齢化の傾向に何とか歯止めがかからないかぎり、今後私たちは、「昔は決して有り得なかった」と天を仰いで慨嘆するような事態をこれ まで以上覚悟せねばなるまい。ここで本当に怖いのは、自分の子が被害に会うことだけではない。加害者になる心配もしておかねばならないのだ。

 今度の事件について、ちょうどその時期にあたっていた終業式ではどこの校長も、まるで判子で押したように「命の大切さ」を説いたようである。本誌 の本年2月号にも書いたところだが、話の趣旨に反対する者はいないとしても、「殺人」と聞くや全国津津浦浦の校長先生がこぞって「命の大切さ」を持ち出す という対応の仕方には、いささか御座成りの感が拭えない。意地の悪い見方をすれば、このようなお説教を垂れたという実績をつくってさえおけば、万が一の場 合の"アリバイ"にもなろうということだろうか。

 私たち人の子の親たる者(娘と息子はとっくに成人しているが、私には幼い5人の孫がいる)、そして子どもたちに強い影響力をもちうる学校教師たる 者は、事にあたって生命の尊厳なる抽象的倫理論に逃げ込むのではなく、常日頃から、子どもが肌で感得できる生き生きとした言葉で彼らの想像力に訴えて、自 分が現在生きていることの喜びと感謝の気持を彼らに実感させ、合わせて人の命を奪う行為に対する恐れと嫌悪感を着実に育てていくべきである。少年犯罪には 即効薬などない。迂遠ではあっても、日頃からこうした地道な努力を重ねていくしかないのだ。子どもに対して真剣な愛情を抱ける人なら、このことは本能的に 分かっているはずである。

 犯罪の低年齢化ということは、現象論的には2つの様相から成っている。すなわち子どもの肉体的早熟化と精神的未熟化である。言い換えれば、肉体と 精神の成長の極端なアンバランスである。残念ながら、現今の日本の社会にはこれら2つの様相をそれぞれ拡大強化する要因が満ち溢れている。

 つい先日のこと、私は小田急の電車の中で異様な光景を目にした。白シャツに黒ズボンのその高校生(とおぼしき若者)は、乗降口のガラス扉の前に、 私に背を向けて顔を隠すような感じで立っていた。左手の拳を口のあたりにもっていってる様子が変なので、私は体を少し横にずらして彼の口元をそっと覗きこ んだ。何と彼は親指を口の中で一心にしゃぶっていたのである。幼児がよくやるあれである。よく見ると彼の親指は部分的に変形していた。「しゃぶりダコ」と でもいうのだろうか。私は一瞬ゾーッとして、思わず2、3歩後退りした。

 この高校生(中学生?)こそ「肉体早熟・精神未熟」が服を着て歩いているような人間像だと思った。彼の両親や関係者はなぜ彼のこの状態をここまで 放置してきたのか。思うにその一因は、児童教育にまつわる偽善や思い付きが世にはびこっていることにある。曰く「自然に任せてのびのびと」、曰く「親が指図・管理しない」、曰く「叱るな・たたくな」、曰く「むしろ子どもに学べ」、曰く「子どもの自主性を尊重せよ」、曰く「個性を育てる教育を」・・・。

 世の親たちはこれらスローガンの氾濫の中で戸惑い、右往左往する。文部省に「ゆとり教育」などと言われて、勉強させるべきかどうかさえ迷っている のだ。自信を失った親の下で健全な子が育つわけがない。奇を衒った教育論はやめて、そろそろ常識の復権を考えるべきときではあるまいか。

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