無孔不入 無悪不做 (2002年01月号)

 

 『無孔不入 無悪不做』

 中国には、一笑に付すことのできない諺がある。これの意味するところは、"つけ入る隙のない孔(穴)はなく、できない悪事はない"であり、また、これほど中国人の本質を言い表したものはない。

 2001年11月21日の朝日新聞に踊った「電線盗んだ農民4人に異例の死刑判決」という小見出しは、そのことを何より雄弁に物語っていた。
 記事によれば、北京や河北省などでこれまで5万6000メートルの電線を盗んだ農民21人のうち、4人に死刑、2人に執行猶予付きの死刑、さらに8人に無期懲役が下されたというものだった。

農民達は、電線に使われている「銅」を売って金儲けしようと企んだのである。もとより、金儲けのために公共物を盗むという呆れた犯罪行為は、我々の 想像をはるかに超えているのだが、同時に、見せしめ的な死刑判決を下さねばならないほど、中国ではこうした犯罪が横行している実状が裏読みできる。

 この記事を目にした私は、今から15年ほど前に新疆ウイグル自治区の留学生から聞かされた「大陸では電線が盗まれる」という話を思い出した。そして、当時は半信半疑だった私も、「ああ、あの話は本当だったんだ」と膝をうったのである。

 しかし、国際社会を唖然とさせるこうした特異な事象も、中国では"日常茶飯事"であることを知っておく必要があろう。

 砂漠化防止のための植林をしても、地元民に抜き取られてたちまち〃薪〃と化す。三峡ダム建設のための立退き人口調査がはじまれば、立退き補償金目 当ての流入者が数10万人もやってくる始末。当初の見積もり人口100万人が途端に100数十万人に膨れ上がるのだからたまったものではない。

 要するに、中国人は「上に"政策"あれば、下に"対策"あり」と大胆不敵に考えるのであり、これこそが『無孔不入 無悪不做』の実相なのである。

 そもそも中国社会には「公」という概念など存在せず、万人身勝手の「私」だけがはびこってきた。したがって社会=公のルールを取り決めた法律が形 骸化するのも無理はない。中国における「法」とは、民衆を治める道具に過ぎず、権力者が守るものではない。要するに中国はいまだ「人治国家」であり、よっ て民衆も法に対して面従腹背なのである。

 法治国家に暮らす人々にとって、法律や規則を遵守することは当然であり、最低限の社会ルールだが、多くの中国人にとってそれは「その網の目をくぐれば旨い汁が吸える有用な仕組み」としか映らない。

 中国人は、遵守すべき法律条項を読むのではなく、目を皿のようにして抜け穴を探すのである。つまり、法律・規則に謳われた禁止事項をみて、「できること」を模索するのが中国人の思考回路なのだ。

 さて、そんな13億の民を抱える中国が、WTOに加盟することにあいなった。

 国際社会は、タガをはめればルールに従うだろうと、中国のWTO加盟を歓迎したが、それは法治国家の淡い期待でしかない。中国人にはそんな常識や ルールは通用しないのだ。彼らは、必ずやWTO諸規定の網の目をかいくぐって、甘い汁を吸おうと躍起になることだろう。そして、誰かが苦汁を舐めることに なろうことは、もはや火を見るより明らかだ。

 私は、中国のWTO加盟に異論を唱えているわけではない。良くも悪くも、これが、13億の人間集団がひしめき合う土壌で培われてきた〃生態学〃であり伝統であるという事実をいっているのだ。

 かつて石原慎太郎都知事との対談で、私は、中国人の『軟土深掘』(軟らかい土ならどんどん掘る)という民族性を紹介し、それがいまの日本と中国の外交の姿だと指摘したことがある。

 いままさに日本の外交は、こうした中国の権謀術数にはまっているといわざるを得ない。

 「...平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」

 日本国憲法の前文は愚直なまでに相手国の善意を当てにしているのだが、そんなことでは中国という面妖な国と対等な外交や交渉などできるはずがない。

 WTO加盟を果たし、国際社会に登場してきた中国と渡り合ってゆかねばならない"お人よし"の日本人にいま求められるものは、中国の本質をしっかりと見抜く確かな眼力であると信じて止まない。

 『無孔不入 無悪不做』に立ち向かうには、『敵を知り、己を知れば、百戦危うからずや』をもってするほかはなかろう。

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