ロジックから台湾独立を考える (2004年12月号)

 

 台湾の将来をめぐる2つの相容れない考え方については、日本では一般に「独立」か?「統一」か?といった誤解を生じやすい表現で論じられている。何しろ ご本尊の台湾人が、私自身を含めて、長年このような言い方をしてきたのであるから、いまさら何をか言わんやと言うところであろう。しかし私自身の名誉のた め断っておきたいが、私は台湾における慣用語または俗称として「統一」や「統一派」なる表現を鉤括弧つきで引用的に用いることはあるが、台湾に対する中国 の領土的野心を自分の言葉で表現するときは、括弧など付けず、いつも端的に侵略と言ってきた。

 台湾をめぐる問題を論じる際に、「統一」という言葉の使用は好ましくないと思うのは、漢字文化圏ではこれがしばしば「分裂」という言葉と対置され て受け取られ、後者には一般にマイナス・イメージが伴うため、対照的に、前者がア・プリオリにプラスのイメージを与えるからである。例えば、「中国統一の 大義に背いて分裂を企てる台湾」などと書かれると、もうそれだけで、理屈ぬきに中国は善、台湾は悪とされかねない心象風景が容易に形成されるのである。こ のレトリック上の欺瞞手法を中国はかつて盛んに用い、日本の著名な評論家の中には、他愛なくこの手に引っかかった人も少なくない。

 そもそも、「天下統一」という観念は、中国における一種の歴史的なフェティシズム(呪物崇拝)といってよかろう。中国人の伝統的な感覚では、「統 一」は常に絶対的な善であった。例えば孔子・孟子・老子など諸子百家の思想が550年ものあいだ繚乱と咲き誇った「春秋戦国」という時代は、いたずらに小 国が乱立する「乱世」として受け取られる一方で、戦国の群雄を滅ぼした秦は、「焚書坑儒」など思想統一の愚行をやってたった40年で亡びてしまったのに、 有史以来初の「天下統一の偉業」を謳われ、「シナ」または「チャイナ」の語源とさえなったのである。

 実際には、近年出土した7000体にも及ぶ等身大の兵馬俑(その一部は最近日本でも展示されている)や、4000キロメートルにも達する万里の長 城の遺蹟から、そこに費やされた巨大な非生産的エネルギーを想像すると、秦のこの40年間の強大な中央集権制の下で、人々が仕合わせにそれぞれの人生を過 したとはとても考えられない。しかし中国人の歴史感覚では、「諸国」が統一されたかどうか、皇帝の権力がどこまで及び、帝国の版図がどれほど拡大されたか が、各王朝の偉大さを測る最大の価値基準となった。このような「統一」に対する呪物的偏愛と唯我独尊の中華思想が結びついた「中国原理主義」とでもいうべ き観念が、現代に至ってもなお、中国人の体内に脈々と息づいているのだ。

 先年、訪中したブッシュ大統領が北京の清華大学で講演したとき、「なぜ台湾問題の解決を望むと言い、統一を望むと言わないのか」と、学生からの激 しい反発に遇ったと伝えられている。「台湾海峡両岸の平和的協議を」などと安易に口にする人が多いが、中国人にとって台湾はあくまで「統一」すべき対象で あって、対等に協議すべき相手ではないのだ。

 同じ文脈で考えて、私も長年使ってきた「独立」という言葉も不適切な含意を人に伝える。台湾はいまだかつて、1日たりとも中華人民共和国の一部で あったことはなく、台湾人はかの国に対して1円の税金たりとも納めたことはない。台湾とかの国はそもそも最初から別の国なのだ。「分裂」の事実もな
いので、「統一」などまったくのナンセンス。

 戦後50数年間にわたって恐怖政治による植民地支配体制を続けてきた中華民国政府は、30年前に「中国正統政府」の虚構を国際的に否定され、21世紀に入ってからは、2度に渡る全民直接投票によって、台湾における政権をも失ってしまった。

李登輝氏が言うように、中華民国はすでに存在しないのであるが、その虚構体制の残滓はいまなお台湾人を苦しめている。台湾人が「独立」と言うのは、端的にいってこの残滓の清算を指している。げに台湾問題とは「中国の内政問題」などではなく、台湾自体の内政問題なのだ。

 「中国原理主義」は度重なる靖国参拝への干渉、東シナ海ガス田開発問題、尖閣領有権問題、サッカー場反日事件など、さまざまな形で日本にその矛先が向けられ始めている。私としては、「今日の台湾は明日の日本」とならぬよう祈るのみである。
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