紙背を見る目を養うことが肝要 (2009年07月号) |
なるべく多くの新聞に目を通すようにしているが、購読するのは二紙、他は金を払ってまで読みたいとは思わない。出張の往き帰りの機上で、またはホテルで、地方紙や全国紙を片っぱしから読む。5月24日朝、福岡のホテルで広げた朝日新聞一面の見出しは「床下、計3遺体に」。これから朝食をとる人の目に入ったこの禍々しいニュース。クオリティ・ペーパーを自認する朝日が、日曜朝刊一面になぜこの記事をもってこなくてはならないのか理解に苦しむ。天下の情勢にどう係わるのか。
報道の基軸がどこに設定されるのか、来日半世紀、折々のキャンペーンが目まぐるしく展開されてきたのを見聞した。60年安保の盛り上がりも引際も演出者は朝日だったと理解している。なぜか、メディアは常に叩くターゲットが必要のようだ。センセーショナルにバッシングする相手をみつけ、読者にうっ憤ばらしをさせる。まったく関係のない対象にも係わらず、一般人はある種のカタルシスを覚える。
記憶に残るのは「諸悪の根源」としての商社叩き。'75年、客員研究員としてケンブリッジに滞在していたときの話である。大学の先輩も海外研修でロンドンに一年間滞在していた。この際ケンブリッジ大学を訪れたいと一泊の予定で現れた。夕食を共にして四方山話をしていたら、「"商社は諸悪の根源"だと新聞が報道するから、なんとなくそう思っていたが、イギリスに来て、日本製品がこんなに普及しているのを見て、商社が頑張って日本の経済を支えているのがよく解った」と大真面目で言うではないか。
専門の英文学と関係なければ、大学教授にしてこの体たらく。メディアの刷り込みがどれだけ有効なのか、思い知らされたエピソードである。
'07年参院選時、年金問題が話題の中心になり、政府・与党への不信感を拡大させ、自民党が大敗した。来る総選挙に向けて、最近の俗耳に入りやすいスローガンは「脱官僚」「霞ヶ関をつぶせ」そして「世襲反対」。先ずは政権交代ありき、有権者に与党の負のイメージをいかに刷り込むか。日本テレビの「太田光の私が総理大臣になったら...秘書田中」でも「二世議員は一切認めません」(5月15日放送)のマニフェストが出された。
小泉元首相が引退時に次男を後継者に指名した折、この欄で「小泉お前もか」としるしているが、世襲を一切禁じるのはベストの人材をハナからシャット・アウトする可能性があると、番組では異論を唱えた。人間平等で、機会も平等に与えられるのは法の下で決められている。しかし、人がどういう遺伝子を持って生まれるのか、それは神のみぞ知ることで遺伝子の悪戯(いたずら)(いたずら)なのだ。出生の不条理は全ての人間に起こりうることで、その意味では平等。「トンビが鷹を産む」こともあれば「鷹がトンビを産む」こともある。この不条理こそ、人間世界の醍醐味でもある。この現実を無視して、政治家の世襲を一切禁じるのは偽善としか言いようがない。
他の世界では許されるが、政治家だけ許されないのはそれこそ不平等だ。適性がないと思うのであれば一票投じなければよい。それで淘汰される。
台湾から留学生として来日し、憧れの歌舞伎を初めて観たのは十一代目市川團十郎の襲名披露だった。最初に観る演目によって好きになったり、嫌いになったりするので、この日まで待てとアドバイスされたのである。十一代目の助六は圧倒的な美しさであった。残念ながら十二代目はオーラが・・・。ところが十三代目を継ぐ海老蔵は新之助として登場した時から十一代目の再来として騒がれ、舞台での美しさには惚れぼれする。
24日夜、F1グランプリ・レースを漠然と観ていたら、日本人選手中島一貴の参戦が話題になっていた。父親の中島悟氏は日本人初のF1レーサーだという。こういうケースは世襲とは言わないだろうが、これこそ遺伝子のなせるワザなのだ。
因みに24日(日)朝刊で、読売は社会面のトップに「床下の遺体3人」。産経一面のトップは 韓国の盧武鉉(ノムヒョン)前大統領の自殺「権力と血縁 断ち切れず」で、「遺体」のニュースは社会面の左上四段程度に扱われている。編集の常識だろう。朝日も東京版の一面は「老人ホーム 苦情急増」と別の話題だが、これも不要不急である。
天下の朝日にしてこのレベル。読者は紙背を見る目を養うのが肝要であろう。ゆめゆめ無責任なキャンペーンに惑わされることなく。