『W杯』と『香港』と『一国両制』と (2002年09月号)

 

 アジアを沸かせたW杯が幕を閉じたのはこの6月30日。翌7月1日は返還5周年ということで、香港では盛大な式典が行われ、江沢民国家主席が「一国両 制」の成果を大いに自賛したという。そこで私も、「W杯」「香港」「一国両制」をネタに、三題噺を一席ご披露申上げたい。

 ときは17年前の1985年5月19日、ところは北京工人体育場。その日ここで、W杯アジア地区予選の一環として、中国対香港の試合が行われるこ とになっていた。これはまことに微妙なタイミングであった。3年ほど前、サッチャーと鄧小平の間で始められた交渉はすでに最終合意に達しており、8日後の 5月27日には、英中両国はこの北京の地において批准書を交換し、97年の香港返還が正式に発効する予定になっていたのである。

 英中交渉開始以来、香港人の表情は終始冴えないものがあった。「再び祖国の懐に抱かれる」「温かい同胞愛をもって迎え入れる」など美辞麗句を連ね る中国首脳の発言にもかかわらず、株価はすでに幾度かの暴落をくり返し、不動産も空前の安値をつけた。またすでに相当数がカナダやオーストラリアなどへの 移住を始めていた。

 しかしながら一方、50年間の現状維持を公約した北京の「一国両制」政策を信じ、「港人治港(香港人が香港を治める)」のスローガンに希望を託して、あえて香港に踏みとどまろうとする者も少なくなかったのである。

 そのような状況の中、8万の観衆を集めた工人体育場内で、試合開始の笛が高らかと鳴った。競技はどのように進んだであろうか。毎日新聞香港支局の網谷記者のルポで見てみよう。

 「前半1対1。後半に香港が2点目を入れ、残り時間あとわずか。北京からの衛星中継を香港の支局で見ていたとき、思わず『こりゃひどい』という場面に出くわした。

 香港ゴール前に中国チームが攻め込み、必死で防いだ香港選手が倒れ、動かなくなった。すると中国選手がその体を引きずり、場外へ出そうとした。負 けている中国選手としてみれば、『残り時間がない』という焦りがあったのだろうが、それはまるで"もの"を片付ける感じだった。香港の他の選手はその選手 に食ってかかり、危うく乱闘になるところだった。それを見ていて、香港返還をめぐる中国のやり方も、どこかこれと似ていないか、という思いがよぎっ た。(中略)香港では、茶の間で、電気店のテレビの前で多くの人々が中継を見守った。

 それがどうだ。暴徒化した観衆から『中国人の顔をした外国人』とののしられ、香港チームに瓶などが投げつけられ、一人が負傷、スタンドの香港人に ツバがかけられるなど『建国以来、初の恥ずべき事件』へとエスカレートしてしまった。(後略)」(毎日新聞1985年5月31日付)

 因みに、香港チームは全員華人系の"黄色い顔"の選手であり、12年後には「温かく迎え入れられる」べき「中国同胞」だったのである。

 この事件を覚えている日本人、ましてや事件の意味を理解できた人は非常に少ないと思われる。私は台湾人だから、この事件の持つ意味を人一倍敏感に嗅ぎ取った。私たちには似た体験があるのだ。

 1945年10月、「台湾同胞を祖国の温かい懐に迎え入れる」と称して中国軍が台湾に進駐してきたが、それから僅か1年4ヵ月後、彼らは2万8千 人の台湾人を冷然と殺したのであった。中国人がいう「同胞」とか「祖国復帰」とかはその程度のことだと、私たちは痛く思い知ったのであった。

 それにつけても、私は沖縄返還時の甲子園高校野球を思い出す。解説者や観衆はこぞって沖縄代表のチームに特別に温かった。返還の喜びだけでなく、 戦中戦後沖縄人が蒙った苦難に対する謝罪やいたわりの気持に溢れていた。沖縄水産高校が2回戦まで勝ち進んでも、祝福こそすれ、選手を殴るようなバカはい なかったのである。

 97年5月、香港返還直前、これが見納めと私は4回目にして最後の香港旅行に出かけた。戻ってきてあるシンポジウムで次のような発言をした。

 「一国両制の終焉までに50年待つ必要はない。5年でもうお終いよ。この予言に私の評論家生命を賭けてもいいと思ってる」

 5年たった今日の香港の状況は、どうやら私が評論家を続けることを許しているようである。

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