愛国心について一言 (2004年01月号)

 

 先月は「朝まで生テレビ」に出た話を書いたが、そのときのテーマである「愛国心」についてもう少し語りたい。日本では戦後この方、この言葉にはひたすら マイナスのイメージが付与され、これを敢えて言うのは「右翼」か「軍国主義者」かということになって、揶揄と冷笑の対象とされるのがおちである。その意味 で、日教組などの"戦後教育"は大変な成功を収めたと言えよう。

 現に「朝ナマ」のときの出演者の一人も、シェイクスピアからの引用と称して(正しくはS・ジョンソン)、「愛国心とはならず者の最後の逃げ場である」とのお誂え向きの警句を早速持ち出して、鼻先で嗤ってみせたものである。

 確かに、よからぬ企みの逃げ口上に「愛国心」が利用されたような事例は古今東西少なくなかろう。その点を突いたジョンソンの言葉はまことに辛辣か つ痛快で、これが「警句」としてしばしば引用される所以であろう。しかし、この文学的表現を面白がるあまり、これを以って「愛国心」の一般的定義であると 論断するのは軽佻浮薄の謗りを免れ得まい。

 なぜならば、世界人類の歴史の中で、「ならず者」などとは比べ物にならぬほど多数の善良な人々が、愛する家族(うから)・同胞(はらから)を護り 郷土(くに)を救うために、自らの尊い命を投げうった事実が、日本の場合を含めて無数にあるからである。この厳粛な事実を前に、ただこれを茶化して済ませ ようとするシニックな感覚はやはり健康だとは思えない。

 思うに、「愛国心」などと大上段に振りかざした大仰な物言いをしているが、その本質はだれにでもある「身びいき」の気持と大して違いはあるまい。 だれでも自分の子どものほうが隣家の子どもよりかわいい。小学校の運動会では前を走る子を抜いてほしいと願い、中学のクラスではわが子の偏差値ばかりが気 になる。別に人様の子どもはかわいくないという訳ではないのだが、どんな綺麗事を言ってみても、この単純な身びいきの気持は超えられない。

 こうした個々のあいだでの肉親愛が、日常の喜怒哀楽を共にする家族・家庭全体への愛情へと拡がるのはきわめて自然である。やがてそれは、自分たち の毎日の命の営みを支える生活環境・地域社会への親しみへと容易に拡大していく、自分が生まれ育った村や町が理屈抜きで好ましく感じられ、故郷の山や川は 何やら特別の、訳もなく懐かしい存在となっていく。初めて字を覚えた学校、一緒に遊んだ幼馴染み、踊り興じたお祭りの日の賑わい、優しかった市場のおばさ ん、そしてあの初恋の人・・。一つ一つの思い出が、やがて年を経るにしたがって、「郷土愛」とも言うべき一つの素朴な、しかし揺るぎなき感情に包摂されて いくのだ。

 そしてある日、人々の生活を脅かす非常の事態に際会したとき、永年静かに推積されてきた郷土愛が熱く燃える愛国心へと昇華するのは少しも不思議で はない。愛するものを護りたいとする人間の本能的感情の発露である。「愛国心」とはそれ以上でもそれ以下でもない。不当に貶められてはならないし、法外に 誇張されるべきでもない。

 日本では、「愛国心」は永年不当に貶められてきた口だが、「私には愛国心などない」と胸を張って言う人がときどきいる。カッコいいつもりのポーズ ならともかく、本気で言っているのなら、そういう人とはあまり付き合いたいとは思わない。「愛情本能」を司る脳組織のどこかに欠陥があると思われるからで ある。

 少し前の話だが、土曜日朝の日テレの番組「ウェーク・アップ」で、何らかの議論の遣り取りの際、出演者の一人が福島瑞穂氏に「貴女ケッコウ愛国者 じゃないですか」と茶々を入れたところ、彼女はあわてて手を振って「そんなことはない」と強く否定した。本来なら福島氏は、「もちろんよ。貴方いまごろ気 が付いたの?」と応じるべきだったのではあるまいか。もし社民党が体制に反対するあまり、自国や同胞への愛情まで否定するのであれば、それは古諺のいう 「産湯と一緒に赤子も流す」の譬えと同じ愚行である。同党が北朝鮮拉致問題への対応に失敗したことも、根本はこのあたりにありそうだ。

 先日の衆院選で珍奇な光景に接して目を見張った。テレビで菅直人氏が開口一番「私は日本が好きです」とやったのだ。一党の党首が国政を論じるのに、こんな言わずもがなの前置きが必要だとは、日本もまだまだ「普通の国」ではないようである。

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