『育児と仕事の両立』という志 (2001年09月号)

 

 本誌7月号で森隆夫先生の「『育児と仕事の両立』という幻想」を読み、私自身「育児」と「仕事」の狭間でさんざん思い悩んだ日々が目の前に浮かびあがってきた。

 1959年台湾から留学生として来日した私は、1964年春、同じ台湾人留学生であった夫と学生結婚をした。妊娠に気付いたのは修士論文の準備に 取り掛かっている秋の頃だった。そもそも子どもは欲しくないと思っていた私は、思いがけない妊娠に思い悩むことになったのだが、結局子育てとキャリアを両 方捨てず、"スーパーウーマン"になろうと一大決心をして子どもを生む覚悟を決めたのであった。

 子どもを出産してからの生活は、予想以上に大変なものであった。幼子は24時間のケアを要求する、当方の自由を100パーセント束縛する暴君であ る。しかも、ほっとけば命の保障はない。考えようによっては、母親というのは実に辛い損な役割である。暫くは欲求不満、ヒステリーの連続であった。当初思 い描いたスーパーウーマン像とはほど遠いような精神状態の毎日であった。
 
 そんな時、ボーヴォワールが慶応大学の招待で来日した。講演会に出かける余裕などなかった私は「婦人公論」に掲載された講演記録を貪るように読んだ。偉 大な哲学者であり作家であるボーヴォワールの講演内容は、多くの示唆に富むものであったが、その一方で、私は彼女の限界をその発言から感じたのであった。
 
 ボーヴォワールとサルトルは自由な関係を保ち、結婚と言う形をとらなかった。ある意味でキャリアを志す女性にとっての理想的な生活スタイルであった。反 面、世帯を持ち、子育てをしている家庭人の悩みや苦しみを体験することもなかった。些細な、時には無意味とも思われる苦労に四苦八苦している同性にほとん どシンパシーを覚えていない発言であった。

 ボーヴォアールは文学史に残る知的な女性であるが、大多数の女性のために発言する立場にないと感じたのである。結婚、育児という大多数の女性が通 る道を避けていては、絶対に理解できないものがある。人間の想像力には限界があるのである。それはまさに目から鱗が落ちるような衝撃であり、子育ての転機 となるものであった。

 仕事をしていれば、場合によっては24時間仕事に打ち込むことを要求されることもあるであろう。そして、そうするのが一流の仕事人であるというこ とに、私も基本的に同意するものである。しかし、全てに24時間集中して打ち込むことが、必ずしもよい結果を生み出すとは限らない。
 特に子育てに関しては、24時間それに没頭することが良いことなのか疑問である。基本的に、子どもはある程度の距離をおいて、ゆったりとした気持ちで育 てることが望ましい。特に核家族の構成で、母親が24時間育児にのめりこむ危うさは、想像に難くない。一日のある時間、保育園や幼稚園と言った、他の大勢 の人が集まる場所で子どもを遊ばせるということは、子どもの社会性を育てるというだけでなく、その間、母親が自由な時間を享受することによってリフレッ シュし、次なる「子育ての時間」を楽しく豊かにするのである。昔のような大家族ならともかく、狭い空間で24時間母親と子どもだけで過ごすと言うのは、母 子両方にとって健全とは思えない。
 
 少子化、高齢化が進み、女性が社会に出て大いに活躍することが求められている。同時に、子どもを産んで育てることも社会の期待である。育児と仕事の両立 が幻想だと言ってしまえば、それを目指している女性にとっては、辛いメッセージになるが、両立が如何に難しく大変かということをしっかり認識した上で、ス タートすべきとするのは大賛成だ。
 
 振り返ると、スーパーウーマンになるように自分自身を無理矢理納得させた私は、スーパーウーマンどころか手抜きだらけの母親であり、キャリアらしいキャ リアも遂に確立できなかった。しかし育児と仕事を両立させたいと言う志をずっと保つことによって現在の自分があり、雑草のように逞しい子どもたちがいる。
 
 子どもと健全な距離を保つためにも、母親は仕事をした方がよいというのが、スーパーウーマン成り損ないの私の持論である。

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