世論が後押しした李登輝氏の訪日 (2001年06月号)

 

 4月22日、台湾の李登輝前総統が16年ぶりに日本の土を踏んだ。関西空港に降り立った氏の表情は、長年の希望が叶った喜びに満ち溢れていた。飛行機で 僅か2時間。しかし、ここに至るまでの道のりは実に長かった。3度目ならぬ4度目の正直で実現した今回の訪日も、ビザ発給までの経緯は新聞・テレビで連日 大きく報じられた通り、国際社会の失笑を買うような顛末であった。

 外務官僚や政府の目が隣の国に向いている中、国民の大多数は日本のあるべき姿、正しい選択を見定めていた。「李登輝氏が来日できないのはおかしい のではないか」という世論の盛り上がりは、ここに来てもはや一握りの官僚や議員の意見がまかり通る時代ではなくなったことを示していた。
 
 李登輝訪日支持の世論の背景には、日本と台湾が正式な国交がないというハードルを越えて、年間相互に100万人近い人的往来があり、経済や文化活動を通 じたグラスルーツの交流が、非常に活発だということが影響している。台湾に自由と民主主義をもたらした李登輝氏が「大の親日家」であることは、今ではすっ かり有名なことだが、日本統治下の台湾で生まれ、京都帝国大学(現京都大学)に進学、学徒出陣のため学業を中断した。深田祐介氏に、「自分は日本人の理想 像である。日本人がこういう人間を作りたいと試験管の中で純粋培養して作り上げたのが私だ」と真面目に言ったそうである。それを聞いた深田氏も、李氏の言 葉を真摯に受け止め、日本にこのような為政者がいればなんと幸せなことであろうかと思ったと言う。「22歳まで日本人だった」と言ってはばからない李登輝 氏は、総統時代の12年間、訪日を何度も強く希望していた。1994年の広島アジア大会、95年の大阪APEC、何れも隣国の強烈な反対により見送らざる を得なかった。総統の座を退き、一私人であった昨年10月、松本市で開催されたアジアオープンフォーラムへの出席も断念せざるを得なかった。

 李登輝氏が総統の座を退いた後、私は以前にも増して多くの日本人に「李登輝前総統の訪日の可能性について」質問を受けるようになっていた。私がビ ザの発給を決められるわけではないのだから、些か答えに窮するのであったが、相手は心から李登輝氏の訪問を願っているのである。昨年7月東京でのシンポジ ウムでこの質問を受けたとき、「李登輝氏は、日本を愛し、日本を訪ねたいと以前から熱望しています。彼が引退した現在もし日本が彼の来日を拒否するという なら、日本は三流国です。日本の国柄が問われています。それは一外務省だけの問題ではありません。日本人の皆さん一人ひとりの責任です。肝に銘じて自分の 国が一流の国でありたいのか、それとも他国の覇権主義の思いのままにされるような三流国でありたいのか、どうぞ肝に銘じて、今日の私の言葉を考えてくださ い。」と答えた。参会者から、大きな拍手が沸き起こった。私はそういう積み重ねから、世論が李登輝氏の訪日支持に動いていることを肌で感じていた。

 明らかに多くの日本人が国際社会における日本の真の自主独立を危ぶみ、李登輝氏の訪日問題をその試金石と捉えていた。政治に日頃無関心といわれる 若者達の間でも、日本と同じ価値観を共有できる台湾への関心が高まり、李登輝氏をぜひ学園祭に招きたいと相談にくる学生たちがでて来た。

 今回は、そういう世間の潮流の変化に気づかない又は気にしない外務官僚や一部の国会議員が、国民にその鈍感さをさらけ出し支持を失う結果となっ た。ビザ申請書類の提出を否定した見え見えの嘘も、笑いのタネだった。李登輝氏の訪日実現に向けて、超党派の国会議員有志の会が発足したのが、いち早くイ ンターネット上で伝わり、参加者のリスト、メンバー各々の発言全てが、ホームページ上で公開されていた。関心を持てば、誰がどこでどんな発言をしたかとい う情報がいとも簡単に手に入り、政治家、官僚の言動がチェックできるのである。

 4月24日の自民党総裁選挙について、4月10日現在の原稿で、私は橋本氏優勢と書かざるを得なかったが、数日後、流れは小泉氏に転じ、蓋を開け てみたら予備選挙で小泉氏が圧勝。押しても引いても動かないと思っていたのが、ここに来て全てが加速度的にスピードアップし小泉首相が実現した。

 李氏の訪日も総裁選も、民意の勝利である。

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