孤独とは一種の贅沢病か (2009年02月号)

 
 新しい年の幕開けを飾るのは、明るいニュースであってほしい。しかし、100年に1度の大不況で、2008年の最後は新聞を読むのが辛かった。リストラ、倒産、株安と暗いニュースのオン・パレードであった。職も住む場所も失った、非正規雇用者がテレビで窮情を訴えると、世論は一気に同情論に傾く。厳しい意見でも言おうものなら、袋叩きに遭うのは確実だ。

 クリスマス・イブ、一人で食事をしながらテレビを見ていたら、タイの女子学生が「自分の国は好きですか」と聞かれ、嬉しそうに「大好きです」と答えていた。「東南アジア王朝街道!!乗り継ぎ路線バスの旅」の取材で、ポンコツバスはタイの田舎を走っていた。たまたま乗り合わせた下校途中の女の子に、レポーターの日本人がした質問である。余りにも素直なその言葉に二人のレポーターは「楽しそうだなあ」「日本の子どもたちは、なんかけだるそうだものなあ」と感想を述べていた。

 彼我の違いをどう受け止めるのか。物質的な豊かさと反比例して、人は消極的になるのか。鄙(ひな)びた農村に住む日本の子どもたちも、タイの子どもたちと同じように、あっけらかんと「自分の国が大好きだ」と答えるだろうか。残念ながら大人も子どもも、日本人が「日本が大好きです」と答える姿は想像しにくい。見知らぬ外国人に「自分の国が好きですか」と聞かれて、「大好きです」と胸を張って答える日本人は間違いなく少数派であろう。

 2007年に国連児童基金(ユニセフ)が発表した、経済協力開発機構(OECD)加盟国を対象に行った調査で「孤独」だと感じている子どもの割合が最も高かったのは日本だった。15才に対する調査で29.8%。回答のあった24カ国中最高の数字、最低はオランダの2.9%。なんと日本はオランダの10倍もの子どもが「孤独」と答えている。日本に次いで多かったアイスランドでも10.3%。暖衣飽食の日本で、この数字は余りにも異常である。

 タイの女子学生を始め東南アジアの若者に「孤独か?」と問いかけたら、大多数が「否」と答えるだろう。なかには「孤独」とはなんぞや、と理解できない子どももいるだろう。孤独とは一種の贅沢病と言えないだろうか。

 12月24日の「報道ステーション」では、「反貧困ネット・ワーク」が電話相談を受けて、テンヤワンヤの対応をしている場面を紹介していた。続けて、日系ブラジル三世が、涙ながらに苦境を訴えていた。母親と妻子を故郷に残して、単身で出稼ぎに来日した中年男性である。帰国しても仕事がないと言う。ブラジルに較べて、はるかに高い賃金を求めて、日本にやってきたこの人たちは、今までの収入からかなりの額を故郷に送金していると聞いた覚えがある。ある時期がくれば帰国するのが当初の計画ではなかったか。雇用が永遠に続くと信じていたのか。雇用を打ち切られた瞬間、すぐ路頭に迷うのは何故なのか。疑問だらけである。

 非正規雇用者にも同じ疑問がある。報道する側は、常に明日にも生活に困る人たちを取り上げる。その日暮らしをしているから正社員になれないのか。正規採用を目指して努力しなかったからその日暮らしなのか。ニワトリが先か卵が先かの問題とは違う。人間には常に努力するDNAがある筈だが、メディアはそれについて一切追及しない。「弱者を救え」一点張りでは貧困からの脱出は叶わない。窮情を拡大して見せるのではなく、その背後にある経緯を全部見せるべきである。さもなければ人は永遠に学ばない。成長もしない。

 年末、唯一の明るいニュースは、12月16日、産経新聞一面の見出し、「献身が生んだ『犠牲ゼロ』」。5年近くに亘るイラクでの任務を終えた航空自衛隊に関する報道だった。改めて陸上自衛隊のサマーワに於ける貢献も思い出した。炎熱の地で克己精励、立派に任務を果たしたもののふの日焼けした顔が目に浮かんだ。インド洋で給油活動を続けている海上自衛隊も、その正確無比な作業で、各国から賞讃を得ている。陸・海・空の見事なパフォーマンスを支えるのは、日頃の訓練、努力、そして献身ではなかろうか。日本再生の鍵はそこにある。

 クリスマス・イブに芋粥を食べながら、頭の中は、この原稿、翌25日の締め切りでいっぱいだった。寂しい、孤独だと嘆じる暇は全然無い。芋粥も23日夜の飽食のバランスを取る為であった。
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