公費の"適正支出"と"無駄遣い" (2001年08月号)

 

 どこまでが"適正"で、どこからが"無駄"なのか。
 
 政治家が公費を使う判断の基準を考えてみたい。

 卑近な例として、先に中国を訪問した田中外相が、外務省があらかじめ予約していた一泊28万8000円の部屋をキャンセルし、敢えて9万円の部屋に宿泊したという騒動はいまだ記憶に新しい。

 帰国した田中外相は、国会の場で、「信じられない!」と目を剥いて、外務省の"無駄遣い"を厳しく糾弾してみせた。そして期待通り、彼女のこうした演技は、国民の関心を惹きつけ、共感を呼んだ。

 週刊誌『アエラ』(6月25日号)の聞き取り調査によれば、田中外相を支持する理由として、「日米安保体制からの自立」をあげる人は皆無で、大多 数が「ホテル代を安くした」と異口同音に言ったのだという。要するに、〃公費倹約〃という、わかりやすいメッセージが大衆に受けたのだった。

 一方で、その田中外相が、6月の訪米時にはチャーター機を要求し、そして記録係や通訳を二人態勢にするなど、先のホテルの一件でみせた倹約ぶりはどこ吹く風であった。一部週刊誌は、こうした田中外相のダブル・スタンダードに噛みついた。

 しかし逆に、私は、こうした支出は「必要なら」認められるべきだと考えている。

 チャーター機も複数の通訳も、また田中外相がキャンセルした一泊28万8000円のVIPルームも、「必要なら」そのための費用を惜しむべきではない。

 去年の4月末、私は、国連本部を訪れるためニューヨークへ飛んだ。このとき私の宿泊するホテルから国連までは、そう遠くない距離だったので、散歩 がてら歩いてゆくことにした。しばらくして、当地では名立たるウォードルフ・アストリア・ホテルの前を通りかかったとき、玄関の国旗掲揚ポールに日の丸の 旗が翻っているのが目に飛び込んできた。

 このホテルでは、貴賓室に泊まる宿泊客の国旗を掲揚することを慣例としているので、誰か日本人が宿泊していることが見てとれた。と、同時に、「ああ、いいな」と感じ入った。もし私が日本人なら誇りをもってこの光景を眺めたであろう。

 後に判ったのだが、このときの貴賓室の宿泊客は、外務省の政務次官だったらしいが、決して贅沢だとは思わなかったし、またいまもそう思っていな い。経済大国としての国威を示すことも、また重要な外交だからである。私にいまそれができないのは、自分が揚げたい台湾の旗がないからに他ならない。

 いまから25年ほど前に私がはじめてニューヨークを訪れ、このホテルの国旗掲揚の慣例について聞かされて以来、いつか台湾を代表する国旗ができたとき、私も貴賓室に宿泊して台湾国旗を揚げたいと心に思い描いている。

 田中外相が宿泊した北京のホテルには、こうした国旗掲揚の慣例がないかもしれない。しかし、世界最大のODA拠出国であり、その成長に陰りがある にせよ、いまもって経済大国である日本の代表が、外国に出掛けていって「ホテル代を倹約しました」では、あまりにも失礼であろう。

 訪問国にお金をおとしてくることも外交使節の〃仕事〃である。そんな相手国の期待をよそに、倹約したつもりが「日本はケチだ」という印象を与えてしまうようでは、外交上の失策といわざるを得ない。

 ときには自分の地位や身分、そして役割を認識して「大盤振る舞い」をしなければならないこともある。問題は、お金をどう有効に使うかということである。

 国家を背負った外務大臣なればこそ、その健康を保ち、よい仕事をするために飛行機をチャーターする場合もあろう。また正確無比で一字一句も聞き逃 せない重要会談に臨んでは、通訳や記録係を増やすことにも異論はない。さらには、機密会議や簡単なレセプションも開けるロイヤル・スイートのような部屋 に、高額な宿泊料を支払わねばならない場面もあるだろう。外交には、こうした〃舞台装置〃がときに必要なのだと私は考える。

 つまり、公費の"適正支出"と"無駄遣い"というのは、事情や場面を斟酌して総合的に判断されなければならないのである。

 その意味から、北京のルームチェンジをはじめとする一連の騒動の本質は、田中外相の判断がやや客観性に欠けて恣意的であったところにあるのではないだろうか。 

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