着実に進む台湾の『静かなる革命』 (2001年04月号)

 

 新しい世紀の幕開けを故郷で迎えようと、40年振りに年末年始を台湾で過ごした。例年東京で過ごす年末は、大掃除こそはしないものの、大晦日まで食べ物 の準備でてんやわんやである。必要もないのに山と買い込んで紅白を見ながらしゃぶしゃぶの鍋を囲む。年が明けたらひたすら怠惰に過ごし、我が家自慢のロー ストビーフに舌鼓を打ちながら箱根駅伝を楽しむ。こういう正月を30年以上も続けて、少々面倒になってきた。つい買いすぎる食べ物の無駄、楽しめる歌もな いのに惰性で見る紅白、母校の早稲田の活躍が望めない駅伝。正月恒例の三大行事が全て意味のない儀式になってしまったことが、台湾で正月休みを過ごすこと につながった。
 とは言っても、台湾でゆっくり休暇を楽しんだわけではない。今でも正月は旧暦で祝う台湾は、正式の休日は元旦の一日だけで、土日に巡り会えなければ大晦日も休みはない。

 出発前に申し入れていた陳水扁総統との会見は1月2日午後5時半と決まった。多事多難の政局に、さぞやお疲れだろうと想像していたが、総統は至って元気であった。「新年快楽」と握手の手を差し出された。

 いつ頃からか、英語のハッピーニューイヤーを台湾語にして一般的に使うようになったが、「恭禧発財」が伝統的な正月のあいさつである。「おめでとう・金運に恵まれますように」ではさすがに露骨すぎる。これも時代の流れであろう。

 「総統はハッピーですか」反射的に私の口から質問が飛び出した。

 「もちろん!」

 「こんなに政局が大変なのに?」

 「因為我有信心(私には信心がありますから)」

 台湾語の「信心」は日本語と違い、宗教的な意味合いはなく、一般的な信じる心、特に自分の行動や理念を信じる心を云う。

 陳総統は、2000年3月の総統選挙で、国民による直接選挙によって選出された。 彼の得票は40%ぎりぎり。就任後も与党の議席数は3分の1しかないような状況の下で苦労の連続である。

 選挙運動の初期、陳水扁の勝利を確信した者はいなかった。彼に劇的な勝利をもたらしたのは、中国の干渉である。その執拗な文攻武嚇が裏目に出たのである。運命の女神が台湾に微笑んだ一瞬である。

 台湾は、長い間外来政権の下に置かれてきた。17世紀のオランダとスペインによる植民地支配、1895年から1945年までの50年間にわたる日 本統治。そしてその後に台湾を支配したのは、大陸からやってきた蒋介石率いる国民党政府であった。台湾で二・二八事件と呼ばれている民衆の抵抗は、結果的 に国民党による2万8000人の大虐殺に発展し、多くの罪のない台湾人と将来の台湾を担うエリートがその犠牲となった。

 国民党による長い一党独裁が続いていた中で、初めて誕生した台湾人のリーダーが李登輝であった。静かなる革命といわれる台湾の民主化は彼に負う所が大きい。国民党の一党独裁から、選挙による政権交代までの道のりは正に奇跡としか云いようがない。

 1996年、台湾で第一回の総統直接選挙が行われる直前、中国は近海にミサイルを撃ち込んできた。世界中が騒然としたなか、講演会で李登輝は涼し い顔で力強く「心配することはない。対策はできている」と断言した。全てを引受け艱難辛苦を物ともせず、民の前では常に自信に満ちた笑顔を見せる李登輝 に、聴衆はリーダーのあるべき姿を見た。

 私は李登輝の表情をしっかりこの目で確かめる為、最前列に陣取っていた。わざわざ東京から彼の講演を聞く為台北に飛んだのである。「心配することはない。対策はできている」という言葉に満員の聴衆は万雷の拍手でエールを送ったのである。

 李総統の後継者である現総統の前途は、計り知れない困難の連続であろう。李総統の時代よりも更に厳しい状況が続くであろう。試練をどう切り抜ける か。巷には悲観論が溢れている。これは台湾人一人一人に課せられた試練でもあり、台湾の日常は怠惰からほど遠く、マンネリでもありえない。この危機意識 が、素晴らしいリーダーを生みだし、台湾を逞しくしていくのだと思えば、むしろ積極的にその運命は引き受けていかなければならない。

 陳総統と会見したその翌日、私は晴れ晴れとした心境で台湾を後にした。

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