人間としての前向きの美意識 (2003年02月号) |
昨年11月、埼玉県熊谷市の中三の男子生徒3人がホームレスの男に暴行を加え死に至らしめたという。まことにショッキングな出来事だが、昨今では別段珍しい事件でもないことが恐ろしい。
このような少年たちによるホームレスへの襲撃事件または「おやじ狩り」は、少年(ときには少女)同士の間で頻発する「いじめ致死事件」と同根のも のであるが、この種の事件が発生する都度、新聞などに見られる「識者」のさまざまな意見は、おおよそ以下のようなパターンに分類される。
(1)担当教師曰く「問題を起したことのない、ごく普通のまじめな生徒でした」
(2)学校長曰く「日ごろから命の大切さを教えていたのに、まことに残念」
(3)評論家曰く「少年法が社会の実情に対応できなくなっている。改正を考えるべき」
(4)訳知り顔のおっさん曰く「近ごろの子どもはケンカの仕方を知らない」
以上(1)はしばしば事実であろう(それだけに一層おそろしい)。(2)については、日本中の学校長で、これまで朝礼の時に同じことを訴えていな い人もいまいと思われる。(3)の議論は難しく、私は確信をもって意見を言えない。(4)は事を面白可笑しく言いたいだけの愚劣な俗論にすぎない。
ところで、毎回事件のたびに、まるでハンコで押したようにこのパターンの意見が新聞を賑わせ、すぐ忘れられ、やがてまた同類の事件が起こる。ここ10年くらい、こんなことの繰り返しではなかっただろうか。そこに何か根源的な問題点はないのか。
私の実感を端的に述べると、子どもたちに「命の大切さ」を説くのはもとより必要であるが、それだけでは"いじめ系"の犯罪に対する抑止効果は希薄である。なぜなら、初めから殺すつもりでやるいじめなどはほとんどないと思われるからである。
前記の熊谷の中学生の場合も、「おれ、死ぬと思わなかったんだ」と涙を流して後悔している(朝日新聞12月13日付)。彼らは当初ホームレスの男 性をからかって嫌がらせをするつもりだったのが、相手が反撃してきたので、その場のはずみで殴る蹴るの暴行となったようである。衆を恃む心理も、仲間にい い恰好をして見せたいという気持も働いて、予期せぬ内に乱暴がエスカレートしていったのであろう。その結果、彼らは僅か十四歳という人生のほんの門出で、 「人殺し」という十字架を一生背負う悲惨な運命を自ら招くことになったのである。哀れと言えばまことに哀れである。
この3人の中学生は、日頃から「命の大切さ」をちゃんと教えられていなかったからこんなことになったのだろうか。そうではあるまい。人を殺すなど という気持は彼らにはこれっぽちもなかったのだ。いわゆる「いじめ致死事件」というものも似た状況で、多くは自己抑制力が未熟の若者が、群衆心理に駆られ て、その場のはずみでやってしまうのだ。
したがって、少年たちにおける"いじめ系"の事件に際して「命の大切さ」を説くのは、それ自体結構なことではあっても、事件の抑止という点では少しズレているのではあるまいか。間違ったボタンをいくら押しても利かないのである。
真に大切なのは、男の子たちに人間としての前向きの美学を与えてやることではあるまいか。本当の男らしさ、雄々しさというものを幼ない頃から言っ て聴かせる一方、衆を恃んだり力や権勢に頼って罪もない者や弱い者をいじめるという行為がどんなに醜く、人間として恥ずかしいことであるかを説く。さら に、弱い者をかばい、助けてあげることがどんなに美しい行為であるかを悟り、そのような美意識と道徳感覚を子どもの心の中にしっかりと植えつけることであ る。そのように育った少年なら、職も家も失った路上生活者を見ても、これをからかうという嗜虐的な気持など最初から生じないであろう。
押すべきボタンはここにある。「いじめは卑怯である」「卑怯は恥ずかしく醜い」という美学を、日本の子どもたちはなぜか、もう随分長いあいだ教え られてこなかった。私はこのような基本的な道徳感覚を教えない義務教育などナンセンスだと思っている。「平和と命の大切さ」だけではダメなのだ。
このような前向きの美意識が欠けたまま育った大人が、相手が弱いと見るやすぐにこれを侮り、強い相手に対してはぺこぺこと卑屈になる。日本のどこかのお役所にもよく見られる光景である。