人命は鴻毛よりも軽いのか (2008年07月号) |
中国、四川大地震の被害は、二次災害が続き、計り知れない規模に広がっている。
1999年9月21日未明、台湾中部で大地震が起きた。前日の20日午後、間一髪で災害を逃れ東京に戻っていた私は、翌朝、テレビに叩き起こされた。 「台湾で地震が起きた。早く来てくれ」。寝ぼけ頭に衝撃が走ったのは、倒壊したビルの映像を目にした時だった。やっとつながった電話の先に「シャーウッ ド・ホテルは大丈夫ですか」と反射的に質問していた。つい昨日まで宿泊していたホテルなのだ。「大丈夫。あれは日本のゼネコンが建設したホテルだから」 思いがけなく、テレビで日本の建設会社と台北での定宿を宣伝する結果になったが、台北からの第一報は、ある意味では意図的に選ばれた「地震の被害模様」 だったのだ。震源地からかなり離れている台北で、ペシャンコになったビルの前から、繰り返し繰り返しレポーターが報道していたが、そのビルの倒壊は人災と しか言いようがないと、後に判明した。1階に銀行が入り、広いフロアが必要なので、大きな支柱を何本も取払ったので、耐震強度がゼロに近かったのだ。
自然災害は防ぎようがない。いかに科学技術が発達しようが、天変の猛威には手が出せない。しかし、天災の被害を縮小するか、拡大する かは人の動きにかかっている。最高責任は一国の長にあることに異論はないが、民に責任がないとは言えない。台北で唯一倒壊したビルは、まさに人災の見本で あった。
「前田徹の上海的事故」(フジサンケイ「ビジネスアイ」)に「巨大地震の陰に巨大ダム」(5・23)と題した一文には「地質学者『環境破壊への処罰」との見出しがあった。詳細は省くが、タイトルを見ただけでも、この度の四川大地震は単なる天災ではないことに思い当る。
多くの校舎崩壊も、人災であることは間違いない。午後3時という発生時間が学童たちを犠牲にした不運はある。しかし殆んどの学校が子どもたちを生埋めにした事実は、手抜き工事の結果である。
中国では手抜きを「盗工減料」と言う。手間を盗み、材料をケチると言うことで、一般的に使われる言葉だ。建設工事に限らず、料理から諸 事一般、中国人の得意技なのだ。因みに教育者に対する最も普遍的な表現は「誤人子弟」(他人の子弟をダメにする)。この度の悲劇は教師の責任ではないが、 教育事業担当の役人たちの責任は免がれないし、耐震構造を配慮しなかった行政府の罪は甚大と言わざるを得ない。
地震発生後、中国政府は当初、外部からの人的救援を拒否していた。明らかに混乱した現場を見せたくないと反応したのだろう。これも又 伝統的な価値観で、「家醜不外揚」(家の恥は外には曝さない)と言う。かつて日本人も同じような考え方があっただろうが、自由、民主、平等の現在、情報公 開が最優先されている。さすが中国も「人命より面子」などと言う訳にもいかず、3日後日本の救援を要請した。しかし、それも国際社会の批判を躱(かわ)す 目的ばかりが目立ち、救援者のプロフェショナルな活躍が封じられた結果になった。その後中国入りした医療チームも被災地ではなく、大病院に配置され、少な からずギクシャクした面もあった。
報道は温家宝首相や、胡錦濤主席の災害地慰問や愛国心を鼓舞する美談に溢れ、被害者の必要とする情報に欠けるように見受けられる。発 生後一、両日後に見た日本の新聞数紙に掲載された写真は、実に異様であった。救助している若者がまるで京劇の役者の身振りでポーズしていた。宣伝写真以外 の何物でもないと、かつて文化大革命や、「雷鋒に学べ」を知る世代は直感したであろう。
日本では「人命は地球より重い」。だが、中国では「人命は鴻毛よりも軽い」のが現実だ。晩年の毛沢東がソ連から大量のICBM(大陸 間誘導弾ミサイル)を買い込んでいることについて、訪中したフランスのポンピドー大統領(当時)が、「あなたは本気でアメリカとの全面戦争を考えているの か」と尋ねたのに、「場合によったらやるかもしれない。この国は人口が多すぎるから、二、三千万人くらい死んでも一向に構わない」という答えが返ってきて 唖然としたというエピソードにも表れている。現に文化大革命の混乱では七千万人が殺戮されたともいう。
犠牲者が何万人出ようが、メディアは行方不明になった三匹のパンダが気になるようだ。残った国の宝、パンダの餌が最優先で届けられている。
1999年9月21日未明、台湾中部で大地震が起きた。前日の20日午後、間一髪で災害を逃れ東京に戻っていた私は、翌朝、テレビに叩き起こされた。 「台湾で地震が起きた。早く来てくれ」。寝ぼけ頭に衝撃が走ったのは、倒壊したビルの映像を目にした時だった。やっとつながった電話の先に「シャーウッ ド・ホテルは大丈夫ですか」と反射的に質問していた。つい昨日まで宿泊していたホテルなのだ。「大丈夫。あれは日本のゼネコンが建設したホテルだから」 思いがけなく、テレビで日本の建設会社と台北での定宿を宣伝する結果になったが、台北からの第一報は、ある意味では意図的に選ばれた「地震の被害模様」 だったのだ。震源地からかなり離れている台北で、ペシャンコになったビルの前から、繰り返し繰り返しレポーターが報道していたが、そのビルの倒壊は人災と しか言いようがないと、後に判明した。1階に銀行が入り、広いフロアが必要なので、大きな支柱を何本も取払ったので、耐震強度がゼロに近かったのだ。
自然災害は防ぎようがない。いかに科学技術が発達しようが、天変の猛威には手が出せない。しかし、天災の被害を縮小するか、拡大する かは人の動きにかかっている。最高責任は一国の長にあることに異論はないが、民に責任がないとは言えない。台北で唯一倒壊したビルは、まさに人災の見本で あった。
「前田徹の上海的事故」(フジサンケイ「ビジネスアイ」)に「巨大地震の陰に巨大ダム」(5・23)と題した一文には「地質学者『環境破壊への処罰」との見出しがあった。詳細は省くが、タイトルを見ただけでも、この度の四川大地震は単なる天災ではないことに思い当る。
多くの校舎崩壊も、人災であることは間違いない。午後3時という発生時間が学童たちを犠牲にした不運はある。しかし殆んどの学校が子どもたちを生埋めにした事実は、手抜き工事の結果である。
中国では手抜きを「盗工減料」と言う。手間を盗み、材料をケチると言うことで、一般的に使われる言葉だ。建設工事に限らず、料理から諸 事一般、中国人の得意技なのだ。因みに教育者に対する最も普遍的な表現は「誤人子弟」(他人の子弟をダメにする)。この度の悲劇は教師の責任ではないが、 教育事業担当の役人たちの責任は免がれないし、耐震構造を配慮しなかった行政府の罪は甚大と言わざるを得ない。
地震発生後、中国政府は当初、外部からの人的救援を拒否していた。明らかに混乱した現場を見せたくないと反応したのだろう。これも又 伝統的な価値観で、「家醜不外揚」(家の恥は外には曝さない)と言う。かつて日本人も同じような考え方があっただろうが、自由、民主、平等の現在、情報公 開が最優先されている。さすが中国も「人命より面子」などと言う訳にもいかず、3日後日本の救援を要請した。しかし、それも国際社会の批判を躱(かわ)す 目的ばかりが目立ち、救援者のプロフェショナルな活躍が封じられた結果になった。その後中国入りした医療チームも被災地ではなく、大病院に配置され、少な からずギクシャクした面もあった。
報道は温家宝首相や、胡錦濤主席の災害地慰問や愛国心を鼓舞する美談に溢れ、被害者の必要とする情報に欠けるように見受けられる。発 生後一、両日後に見た日本の新聞数紙に掲載された写真は、実に異様であった。救助している若者がまるで京劇の役者の身振りでポーズしていた。宣伝写真以外 の何物でもないと、かつて文化大革命や、「雷鋒に学べ」を知る世代は直感したであろう。
日本では「人命は地球より重い」。だが、中国では「人命は鴻毛よりも軽い」のが現実だ。晩年の毛沢東がソ連から大量のICBM(大陸 間誘導弾ミサイル)を買い込んでいることについて、訪中したフランスのポンピドー大統領(当時)が、「あなたは本気でアメリカとの全面戦争を考えているの か」と尋ねたのに、「場合によったらやるかもしれない。この国は人口が多すぎるから、二、三千万人くらい死んでも一向に構わない」という答えが返ってきて 唖然としたというエピソードにも表れている。現に文化大革命の混乱では七千万人が殺戮されたともいう。
犠牲者が何万人出ようが、メディアは行方不明になった三匹のパンダが気になるようだ。残った国の宝、パンダの餌が最優先で届けられている。