森前首相の訪台で思ったこと (2004年03月号)

 

 暮れの25日、私の乗った中華航空機は、一足早く成田を発った同航空午前の便を追いかけるように台北へ向かっていた。前の便には台湾を初訪問する森喜朗前首相の一行が乗っていたのだった。

 私が森さんの"追っ掛け"をやるのはこれで2度目だ。一度目は平成13年の4月下旬、新宿御苑で恒例の首相主催の観桜会が開かれたときだった。す でに退陣が決まっていた森首相が最後の挨拶をすませ、出口の門へ向かってゆっくり歩き出したとき、私は大勢の参会者を懸命に掻き分けて森さんに近づこうと した。押し止めようとする警護の人に私は訴えた。「お願いします。総理に一言お礼が言いたいだけなんです。李登輝さんのことで・・・」

 実はほんの一両日前、台湾の李登輝前総統の訪日ビザがやっと出たところであった。それまで李さんは総統時代の12年間を通じて3回、引退してから 1回、都合4回にわたって訪日希望を表明してきたが、その都度日本の一部政官界によって実現を阻まれてきた。この平成13年にも心臓病治療のために訪日ビ ザの申請をしていたが、時の外務省アジア太洋州局長は、ビザ申請などないと大嘘を吐いてまで李さんの希望を闇に葬ろうとした。幸い事態を知った森首相のツ ルの一声でこの陰謀は喰い止められ、この台湾切っての親日家は16年ぶりに日本の土を踏めることになったのである。偶然にもその直後の観桜会に招待されて いた私は、ここで森さんに知らぬ顔はできない、黙っていたら台湾人として女がすたる、と思ったのであった。

 警護陣に囲まれて私は、周りに聞こえるよう大声を張りあげて、「森さーん、李登輝さんのビザどうも有難うございましたー」とやった。森さんは一瞬驚いたようだったが、すぐに破顔一笑、「いつもテレビ見てますよ」とお愛想まで言って下さったのであった。

 その森さんが台湾を初訪問するとのニュースに私は落ち着かなかった。中国の一顰一笑を気に病み、汲々としてその顔色を窺うことを能事とする昨今の 日本政界の空気の中で、森さんのこの信念に満ちた行動はまことにすがすがしく爽やかに感じられる。私はそういう人が好きなのだ。そういう訳で私は、今度は 飛行機を使って、またまた森さんの"追っ掛け"をやることになったという次第である。

 12月26日の夜、早稲田と慶應の台湾同窓会が共同で主催した森前首相歓迎会に出席した。2011年のワールドカップ・ラグビー世界大会を日本に 誘致するため、アジア各国に支持を訴えるのが訪台の趣旨だとのことで、森さんの一行の中には早稲田の日比野弘元監督や慶應の上田昭夫総監督などの顔も見ら れ、和気藹藹の盛会だった。なかでも、森さんが来台当日どこよりも先に台湾海峡に臨む淡水の町にまで出掛け、故柯子彰(かししょう)氏の墓参を済ませたと いう話はとりわけ台湾人の胸を打った。柯氏とは知る人ぞ知る、台湾が生んだ不世出の名ラガー。14歳で同志社中学に留学、同校ラグビー部部員として3年連 続全国制覇に貢献。早稲田進学後の昭和5年、初結成の日本代表の一員としてカナダで六勝一分。同8年早大主将として全国大学大会で優勝。翌9年には日本代 表チームの主将としてカナダに遠征、その名を全国に轟かせた。戦後すぐ台湾ラグビー協会を設立、台湾ラグビーの指導に生涯を捧げた。

 柯氏は森さんの御尊父とは早大のラガー仲間であった。御尊父逝去の前後には台湾から駆けつけて病院に見舞い、葬儀に参加したのだという。
 
 「ところが柯さんが亡くなった平成13年、私は総理をやっていて台湾には行けませんでした。それがとても心残りで、いつも申し訳ないと・・・」

 そこで森さんの声は少しくぐもったのであった。私はそこに、信義に堅く人情に厚い、今どきもうあまり見られなくなった伝統的な日本の男を目の当りにする思いだった。

 この日の台湾の新聞は、前日の夜森さんが陳水扁総統と会見したことをとらえて、森さんが小泉総理からの親書を携えていたとか、住民投票反対の勧告をしたとかの憶測を書きたてていたが、森さんからはそんな話はおくびにも出なかった。

 3日後、日台交流協会の内田所長が「住民投票」に対する日本政府の「憂慮」を公式に台湾総統府に伝えたが、折角森さんなどの努力で再構築されつつある日台間の親善感を、こんな不躾けな"申し出"でぶち壊しにするのはまことに残念である。

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