「母国に捨てられる」寂しさ (2008年12月05日)

 

 没後40年レオナール・フジタ展の内覧会に出かけた(11月14日)。オープニングを待ちかねて、いちはやく会場にかけつけた。ずっと楽しみにしていたのだ。

 フジタの絵は折にふれて見ていたが、強くひかれたのは、ひろしま美術館の2点、「裸婦と猫」と「十字架降下」。旅先の思いがけない出会いが異邦人のセンチメントを揺り動かしたようである。

 フランスで絵の修業をした日本の画家は多いが、パリの画壇で勝負できたのは稀有(けう)である。「パリで最も有名な日本人画家」が「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」とにがい言葉を吐いた。終戦直後、日本の異常なまでの反応が、本来ならば美術の殿堂に祭られるべき「神」を「亡命者」に追いやってしまった。

 ピカソも亡命者であったが、彼は意志的にフランコ政権を拒否した。フランコ没後、スペインに移送される直前の「ゲルニカ」をニューヨークのMoMAまで見に行った。それは強烈な告発であった。フジタの絵からは、母国を離れ異国の生活を選んだ意地の中、一抹の寂しさと悲しさを感じる。初期に色濃く反映されている日本画の影響が、晩年の作品からも消えることはないように思われた。個人的な感傷かもしれないが...。

 母国を捨てるのか、捨てられるのか。悩ましい問題だ。最近の台湾の情勢を見ていると、虚脱感に襲われることがある。テレビで、陳水扁前総統が手錠をかけられた両手を高々と上げて「台湾万歳」と叫んだシーンを見て、9歳の孫娘がショックを受けていたと、娘が電話をかけてきた。

 2004年、総統選の直前、日台交流サロンは「台湾応援団」を引き連れて、2回にわたり台湾に乗り込んだ。保育園児と小学1年だった孫娘2人も同行し、多くの集会に参加して「阿扁(陳水扁)当選」と舌足らずの台湾語で連呼した。その映像はテレビ、活字で流され、本人たちにとっても、一生忘れられない思い出なのだ。

 2・28の「人間の鎖」は予定の100万人が200万人も集まった。日本からの一行は二二八平和記念公園に参集したが、会場は押し合いへし合いの超満員だった。

 「金美齢が来た!!」。随所でわき起こる大歓声。長い人生の内で最も昂揚(こうよう)した瞬間だった。これは夫の1周忌に藤原正彦ご夫妻が来訪してくださったとき、美子夫人に聞いた話だが、「ボスがこんなに皆から歓迎されている姿、しっかり見ておきなさい」と夫が2人の孫娘に言ったそうだ。その後も別の同行者から手紙で同じことを知らされた。本人はもみくちゃにされていて、家族の存在など気にしている余裕はなかった。投票日にも重ねて訪台し、陳の再選が決まった瞬間、一行は全員抱き合ってうれし涙を流した。幼い孫娘にこの落差はあまりにも酷である。

 民進党系の政治家が相次いで逮捕されている。戦後60余年、台湾人も中国式に汚染されている。しかし「辧緑(バンリユウ)(民進党)不辧藍(ブバンラン)(国民党)」といわれるように、司法が国民党系に甘く民進党系にシビアなのも確か。中国への傾斜を予言していたが、まさかこんなに早く、恥も外聞もなくとは。中国人馬候補の甘い言葉を信じた多くの台湾人は、今ごろ何を考えているのだろうか。

 台湾を捨てるのか、台湾に捨てられるのか。それが問題だ。

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