いつも不幸な日本人 (2001年05月13日)

 

 5 月1日の本紙夕刊は面白かった。フィリピンのゴミ山の中で賛美歌を歌う少女たちの光景を目撃して、香港支局長の福島さんは「一見悲惨な貧困の中でも、少女 たちは神を信じ、明日を信じているのか、その純粋さがまぶしかった」と感動し、「途上国の貧困の中に、ひざまずきたくなるような美しい姿があり豊かさの中 にも救いがたさがある」と書いてきている。

 偶然にも同じ夕刊にアンケート調査の記事が出ていて、日本の小中学生は「21世紀に悲観的」だとの結論が報じられている。福島さんの感慨を裏書するような内容だ。

 福島さんの描く光景は美しい。あまり宗教心のない私だが、同じ光景に触れたら同じ感動を覚えたであろう。そして一方、この豊かな日本には自虐的教師に刷り込まれたせいか、自分たちの未来について可愛気なくこまっちゃくれた事をいう小中学生がいる。

 そこで、これら2つの記事を適当に捏ね合わせると、途上国の子どもの方が日本の子より実は仕合わせなんだという一般的結論が安易に引き出せそうである。どうも日本ではこの手の思い込み過剰、内省不足の発想が目立つ。

 雪山に登って、「俺たちゃ街には住めないからに」と自己陶酔して歌っている若者たちは、自分が本当に街に住んでいることなど念頭にない。

 「人はパンのみに生きるに非ず」とぶつ人は、毎日のパンを心配せずにすむからそう言えることに気付かない。

 自分は日本にいて、どうせ他人事だと安心しているからこそ、隣国の狂乱沙汰を「魂を揺さぶる」だとか利いた風に評し、「進歩的」だとイキがった先生方がかつていた。

 彼らがもち上げた「北京の青い空」の下で遊ぶ「輝いた眼の子どもたち」は、いまでは粉塵で黒く覆われた空の下で、血眼になって海外脱出の隙をうかがっているのだ。

 安易な思い込みまたは思い付きで勿体ぶる癖を大人がやめないかぎり、日本の子どもにとって21世紀は明るくならないのではあるまいか。

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