最前線は日本に移った (2008年06月06日)

 
 5月20日、馬英九が第12代中華民国総統に就任した。李登輝・陳水扁の2人の台湾人(本省人)総統時代はここで幕が下り、中国人(外省人)が再登場した。

 2000年5月21日朝、夫がいきなり、「産経が誤報しているよ」と新聞を差し出した。陳水扁総統が発表した資政(上級国策顧問)と国策顧問のリストに 台湾独立派で日本でもよく知られている金美齢の名が云々(うんぬん)とあったのである。2人とも寝耳に水であるから、彼は単純に「誤報」と受け取った。し かし私は、これはどうやら事実で、「知らぬは当事者ばかりなり」と判断した。その後台湾からの電話で、台湾独立建国聯盟の黄昭堂主席が「つまりはこういう ことだ」と他人が聞いても訳の分からない一言を伝えた。本人も国策顧問に任命されたが、その感想はない。

 2000年3月、三つ巴(どもえ)の選挙戦を制して民進党政権が誕生した。間もなく「駐日代表に金美齢」と意向を打診された。慎重に発言を自制しなけれ ばならないのは性に合わず、さらに「悪名高い独立派」にアグレマン(承認)を出すほど日本外務省は「勇気」があるハズはないと断った。そういう経緯があっ たので「駐日代表は無理だから、国策顧問に」とつまりはこういうことになったのだと分かりやすい一言なのだ。結局、陳政権の初代駐日代表は国連で活躍した キャリアを持つ羅福全に決まった。

 2004年5月20日、再選された陳総統の就任祝典に出席した。雨だった。壇上にはシートが張られていたが、すき間から雨水が漏れて、マンハッタンの高 級なデパートで買った一点物の帽子が台無しになりそうで気が気じゃなかった。しかし、目の前の広場を埋め尽くしている参加者はビニールの雨具で身を包んで いてもずぶぬれになっていた。国策顧問その他来賓は一応臨時の天井に守られた優先席にいるので文句は言えない。外囲には選挙の結果を受け入れない国民党員 が騒いでいた。多難な途を予感させる式典であった。

 最後は妙なるコーラスで締めくくられた。モーツァルトの歌劇、「フィガロの結婚」の終幕で歌われる和解の大団円である。アルマヴィーヴァ伯爵夫妻、フィ ガロと許嫁(いいなずけ)のスザンナ、小姓ケルビーノ、縁(ゆか)りの高齢者たち、そして領民。多くの登場人物入り乱れてのてんやわんやが全員そろって ハッピー・エンドを迎える大合唱。陳総統が発信するメッセージに気が付いた人はどれくらいいただろうか。

 2006年5月20日陳総統は資政・国策顧問の任命権を自ら放棄した。しかし、陳総統の野党に対する呼びかけは終始片思いのままだった。

 今回の選挙に大勝した国民党は謙虚のかけらもみせていない。新旧交代の儀式後、馬英九は総統府前広場で慶祝式典を挙行せず、場を台北ドームに移した。旧 総督府を避けたいのだろう。国民党主席など相次いでの北京詣でが始まり、台湾はすでに中国のブラックホールに引き寄せられている。

 台湾海峡が中国の内海になるのは時間の問題だ。今や最前線は日本に移った。その現実を認識し、重責を担う覚悟はあるのか。日本人の決心が問われている。

 国策顧問の肩書きがついた6年間、特別な働きをした覚えもなく、手を抜くこともなかった。現在も決心と覚悟に変わりはない。=敬称略
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