淀君か西太后か (2001年07月23日) |
田
中外相が外務省幹部を集めて、「人間には3種類しかない。家族・使用人・敵。使用人は忠実に従いなさい」と言ったという(「朝日新聞」6月7日付)。はな
はだ興味深い発言だ。私なら「家族・友人・敵」となるし、敵のいない人格円満な人なら、「家族・友人・他人」となるのが普通であろう。
田中氏の3種類がとてもユニークなので、どんなタイプの人にこのような意識が生じるのかと、精神分析学的興味で想像してみた。答えはすぐ見つかった。「女帝」である。淀君や西太后である。
田中氏がユニークなのは、普通なら人生で相当大きな存在であるはずの友人(仲間・同志)がいない。つまり対等な人間関係がない。それに代って使用 人が大きなウェイトを占めている。これは彼女の定義では「忠実に従う」べき存在であり、みんな「部下」や「家来」ばかりなのだ。
今どき「使用人」という大時代的な言い方が自然にすっと口をついて出てくるのは、さすが目白御殿の育ち。その一方で、「財布の中は多くて2,3万円」と言いたがるグロテスクなアンバランスに、本人は気付いていない。
彼女にとって官僚は「使用人」の範疇に入る。だから次官も官房長も、淀君にとっての石田三成であり、不興を買えば加藤清正や福島正則のように遠ざけられる。
国家公務員をまるで「使用人」のように扱う彼女を「公私混同」と批判した人がいるが、それは少し違う。彼女は幼くして天下の顕貴要職にちやほやさ れ、長じては総理に付添って世界を周遊する。そんな環境の中で、どこまでが「公」、どこからは「私」というケジメの感覚が育つだろうか。だから彼女の場合 は混同ではなく、最初から「公私未分化」なのだ。これは彼女のために弁明しているわけではない。頭のよい人なのだから、それを自覚し、自戒するべきなの だ。
思うに、彼女の最大の不運は、この民主主義の世の中に生まれてきたことであろう。