駝鳥をきめこむ日本人 (2001年10月07日) |
9月12日早朝、定番の出演でテレビ局に出かけて初めて多発テロの映像を見た。前夜は遅い帰宅で何も知らなかったのだ。コメンテーターとして感想を求められて、
「これは戦争ですね」
と感じたままに答えたら、一瞬座がシーンとなって、誰もフォローしてこない。これは私がいつも違和感を覚える瞬間だが、日本の言論にはしばしばザイン(存在)とゾルレン(当為)の救い難い混淆があって、戦争という事実を言うだけで戦争屋にされる。
2週間後同じ番組で、日本の米国支援の根拠云々という議論になったので、日本も被害の当事者だと発言したら、在席の1人に言下に否定された。皮肉なことに翌日の臨時国会で小泉首相は、「テロリズムとの闘いはわが国自身の問題」と所信表明した。
米国の臨戦態勢を、予想される人たちが予想どおりの批判をしている中国の台湾侵攻には一言半句もないくせに。しかし私は、米国の構えはこれでよいのだと思う。
もし「報復しないのが真の勇気」、「報復は報復を生むだけ」との理由で、米国が反撃しなかったと仮定しよう。
テロ側はビンラディンの言うように米国は張子の虎だと意気大いに揚がり、その教えどおり続けて米国人を殺す。しかしその時もまた同じ理由で反撃はないから、彼らは更に意気揚がりもっと沢山殺す。
これは悪循環の論理だから、米国がどこかで反撃しない限り止まらないのである。
実際には米国の臨戦態勢の結果、テロ側の投降や分裂が一部で始まったと伝えられる。これは戦禍の回避または極小化の可能性を期待させる。
脚本家林秀彦氏によれば、ポーカーフェイスやブラフの欧米的狡智の前に、単純な丁半博打の日本人は敵わないという。今度は名だたる駆引巧者のバザール商人が相手だから、一筋縄ではいくまい。
この難しい局面の中で、砂漠の駝鳥をきめこんでいる日本人は多いが、砂中に頭を埋めたからといって難を避けられるものでもあるまい。