黄昭堂さんのお別れの会 (2011年12月24日)

 

 仕事納めとなり少しはゆっくりできるかなぁ、と考えていましたが、なにかと忙しい日々が続いています。先日「黄昭堂さんのお別れの会」があり、事務所から会場のある旗の台まで、何度か乗り換えをして、思いのほか遠い、などと考えながら会場に向かいました。この日の様子を、わたくしに同行したスタッフのレポートでお知らせします。黄昭堂さんのこと、そしてわたくしの思いを一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

***** スタッフのレポート ******
 12月20日、黄昭堂さんのお別れの会(台湾独立建国聯盟日本本部主催)が東京・旗の台の昭和大学上條講堂でしめやかに行われました。台湾独立建国聯盟主席で台湾独立運動のために生涯をかけられた英雄です。2011年11月17日に鼻の腫瘍手術の途中、動脈剥離に陥り帰らぬ人となりました。台湾においては、世が世ならば"国葬"が行われて当然の人物です。日本においては、黄さんは国際政関係学の立場から台湾独立の正当性を裏付ける優れた学術研究の成果を認められ、昭和大学名誉教授でもあります。ですから、黄さんが教鞭をとった学府はその志を継ぐものたちが集い、その軌跡を振り返り、その功績を偲ぶに最もふさわしい場でしょう。

 「お別れの会」では安倍晋三・元首相、羅福全・元駐日台湾代表夫妻らが駆けつけてくださりお別れのスピーチをしてくださったほか、李登輝・台湾元総統、台湾歌壇代表の蔡焜燦さん、総統選候補の蔡英文・民進党主席、ジャーナリストの櫻井よしこさんらがメッセージを寄せてくださいました。
 羅福全さんは12月3日の台北での葬儀に出席したおり、『千の風』の歌を口ずさんだことを振り返り、その心境について「黄昭堂はここに眠っていません。千の風になって、台湾を見守っています」と語りました。
 黄さんを「ボス」と呼び慕っていた蔡さんは、海の向こうから黄さんにこんな和歌を詠んで寄せてくれました。
 「わがともよ 君にこやかに旅立ちて 残されし我 ひねもす悲し」(当て字含む)
 
                   ◆

 金美齢先生も壇上にあがり、胸を打つスピーチをしました。以下、抄録です。

「私は黄昭堂がいなくなったことに納得しておりません。私は今の今まで一粒の涙も流していません。蔡英文・民進党候補の選挙がいよいよ始まるという、この大切な時期に、彼が亡くなったことがまだ信じられないのです。

 私が彼と初めて出会ったのは1960年のことです。私は突然、何も知らず『台湾青年』という雑誌を受け取りました。その日に、あるアメリカ人の友人から『この雑誌をどう思うか?』とたずねられて、私は『すばらしい!この雑誌を創った人に会いたい!』と答えたのです。
 その話をその友人から聞いた黄昭堂はこう答えました。『自分から俺たちに会いたいと言ってくるヤツはスパイだから信用できない。それに女は役に立たない』
 しかし、友人は私が台湾青年の感想を語ったときの興奮ぶりや『会いたい!』と言った表情から、彼女は『本物(の台湾独立支持者)だ』と確信していたそうです。それで、その友人宅で、王育徳さん(『台湾青年』創刊者)と黄昭堂に引き合わされたのが最初でした。
 黄昭堂は私に優しい言葉をかけてくれたことはありません。みんな、黄昭堂はやさしい人だといいます。その優しさに甘えて、あの忙しい人に昭和大学富士吉田ゲストハウスの予約を頼むようなバカもいました。急死するほど、ただひたすら、台湾のために頑張って、寸暇を惜しんで働いてきました。
 私が、一緒にご飯を食べよう、と誘っても、こう言うんです。『お前とご飯を食べるのは時間のムダだ』。そんな時間があるくらいなら、独立運動のためにもっとすべきことがある、もっと会うべき人がいる...と思っているのは確かです。
 そう言われることが嬉しく、光栄でした。私が絶対裏切らないと信用している証拠です。
 私のように怖いもの知らずでも、黄昭堂の言葉には逆らえません。彼だけには絶対服従なのです。彼のように名もいらず、金もいらず、地位もいらないという人間が一番怖いのです。そんな彼がいなくなって、私はこれからどうすればいいのか。
 
 彼はお金持ちの家に生まれ、頭脳明晰、ハンサムで、独立運動の道に入らねば、きっと順風満帆な人生を送ることができたでしょう。こんな艱難辛苦の道をなぜ選んだのでしょう。私はそう聞いたことがあります。するとこう答えました。『この道を選ばねば、プレイボーイになっていたかもしれない。この道を選んだからこそ、ストイックに生きてこられた』。
 ここまで、ストイックに私心なく、生涯を台湾に捧げた人物を知りません。私は、生まれてこの方、彼以上の立派な男を知りません。
 ですから彼がいなくなったことに納得しておりません。
 本当だったらこう言いたいのです。
 『なんで、こんなときに死ぬんだ!』と。」


 ゆかりの方々のスピーチが終わると、シンガーソングライターの荏原健太氏が黄昭堂さんに捧げる歌を歌い、その間に参列者が白いカーネーションを献花しました。喪主の長男、黄正澄さん、二男の黄正憲さんがご家族とともに壇上にあがり挨拶。特に二男の黄正憲さんは黄昭堂さんの若いころそっくりでした。作家で評論家であり、前台湾独立建国聯盟日本本部委員長の黄文雄さんのあいさつで閉会しました。
 
 黄昭堂さんは生前から「死んでも魂は台湾を守る」と語っていたそうです。ですからきっと、黄さんの魂はまだ安らかに眠っているのではなく、千の風になって天を飛び回り、来る選挙で蔡英文・候補がいかに勝てるか、先に天に召されている王育徳さんら先輩たちと戦略会議を開いているかもしれません。
 ですから、私も献花のときは、普通の「お別れ会」のように「安らかに眠ってください」と言うのではなく、台湾の未来を見守ってください、日本の未来も見守ってください、と心の中で呟いてしまいました。
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                     ◆
黄昭堂氏略歴
1932年9月21日 台南州北門郡七股庄生まれ
1956年      台湾大学法学部経済学科卒業
1958年      謝蓮治さんと結婚後、夫妻で日本留学
1959年2月    東京大学大学院社会科学研究科国際関係論専攻
1960年2月    王育徳氏とともに台湾青年社創設
           (台湾青年社は63年5月に台湾青年会、65年に台湾青年独立                    
           聯盟、70年に台湾独立聯盟日本本部と改称)
1962年2月    東京大学大学院修士課程修了、国際学修士号を取得
1969年3月    東京大学社会学(国際関係論)博士号取得
1976年4月    昭和大学教養部政治学教授(?1998年3月)
1977年5月    台湾独立聯盟日本本部委員長就任(?1983年)
1992年8月    台湾独立建国聯盟日本本部委員長就任(?1999年)
同11月       ブラックリスト解除により34年ぶりに妻ともに台湾へ一時帰国
1995年      台湾独立建国聯盟主席就任
1998年      昭和大学政治学教授を定年退職し、名誉教授に
同年         台日安保フォーラムを設立、理事長就任(?2000年)
2000年      台湾総統府国策顧問就任
同年         台日安保フォーラムを拡大、社団法人台湾安保協会設立、理事長に就任
2004年      総統選挙期間に「228人間の鎖」総指揮を担当
同年9月6日     妻・黄謝蓮治死去
同年12月5日    義光教会で洗礼を受けキリスト教徒に
2011年2月25日 蔡英文・民進党主席を2012年民進党相当候補として推薦
同年11月17日午前11時20分、大動脈解離により急逝

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